日実(龍華院・妙覚寺)
日実(龍華院・妙覚寺)
にちじつ
(一三一八-七八)
字は通覚、龍華院と号す。
南紀州桃井氏の出で、弟に日成があり、早くより妙顕寺に入り大覚妙実のもとにあって行学にはげんだ。
やや長じて大覚の命により備前に下向し福輪寺(のち妙善寺と改む)を拠点として教線を伸帳した。
岡山蓮昌寺所蔵の大覚の書状によれば、日実は福輪寺の屋根葺替えを行い、また別の書状によれば信徒の教化についての教示を承わっている。大覚寂後、朗源に従い宿臈一九名の中に日成と共に名を列ねるに至っている。
永和四年(一三七八)正月一八日、朗源は五三歳をもって頓寂(急逝)した。
後嗣を定めるに至らなかったので宿臈中もっとも人望のあった日実、日成、通源の三人をあげ八方義をつくした末、仏前の鬮によって決めることとなり、三度鬮がたてられたが三度とも通源にあたった。
通源日霽はのちにこれを追懐して「然れば則ち三度の御鬮、予以ってこれを得たり」といっている。
通源時に三〇歳、日実は六一歳、日成は弟であるからあるいは五六、七歳でもあったろうか。
この当時、妙顕寺在住の宿臈は一九名中臈四〇名、若輩五五名計一一四名はこの鬮に異義を申立てぬ事を起請したが、日実、日成はこの結果を不満として同寺を退出し、小野妙覚の外護のもとに妙覚寺を立てて独立した。
この行動は当然起請文に違背するから、諸師の日実らに対する不信の表明は厳しいものがあると考えられるが、実はその気配は見られず、連署者中からわずかに四名、その他当時不在であった人の中の五名、計九名が「音信不通の儀を存す」と絶交したにすぎない。
これを見ると当時の衆僧は日実・日成の行動について同情的であったと思われる。
日実は間もなく備前に赴き福輪寺に住し、これを妙善寺と改めたが、同永和四年六月七日ここに寂した。
六一歳である。
日成は日実を第六世に列し自ら七世に列なっている。
因みに妙覚寺は聖人、日朗、日像とつらねるとき日実は六世、日成は七世となり、日像を初祖とするとき、日実四世、日成五世となる。
《『日蓮教団全史』上、日潮『本化別頭仏祖統紀』、「龍華秘書」『宗全』一九巻、『日本仏教人名辞典』「日実」の項》