日勝(双樹院)
日勝(双樹院)
にっしょう
(-一五八七)
双樹院と号す。
久我通堅の次男、一二歳の時本国寺一四世日助の下に投じ、日助自筆の譲状(本国寺所蔵)によれば、天文二二年(一五五三)七月一五日付属を受けて本国寺一五世となった。
天文法難再建後の本国寺の復興によく努め、永禄六年(一五六三)には本国寺を門跡にされんことを願ったのであるが、山門の反対にあって頓挫してしまった。
この頃、京都勝劣派側では一致派に対し論難を加え、とくに本国寺の立像釈尊、いわゆる随身仏と御譲状を評破した。
日勝はこれに対応し、永禄七年二月管領執事三好修理大輔長慶ならびに檀越松永弾正久秀に訴えた。
日勝は両派抗争して相手方を敗訴させるという意志からではなく、むしろ和合して一味同心に大法宣布に進まんとしたようである。
日勝のこのような態度もあって、やがて両派和睦のいわゆる永禄の規約が結ばれることになった。
日勝は在位二二年ののち、豊後の大友義鎮(宗麟)の懇望によって退歴を余儀なくされ義鎮の女を娶り具堯と改め、一尾庄に住して地名を家号とし一尾と称し、のち名を三休と改め、後年、嵯峨小倉山麓に住した。
一尾氏の祖である。
天正一五年六月六日寂した。
本国寺では除歴日勝と称される。
《宮崎英修『続・日蓮宗の人びと』》