日允(本通院)
日允(本通院)
にちいん
(一六一九-九二)
字は玄通、本通院と号す。
本阿弥光瑳の子にして光甫の弟。本阿弥光悦の孫に当る。
身延山第二六世智見院日暹の門人である。
中村檀林の法華玄義の講主となり、本法寺一八世、中山法華経寺三五世を経て、妙覚寺二四世の主となる。
日允もまた祖父に似て、書法を能くし、身延山「祈祷」の二大字を掲げ筆力神妙にして、父子分ち難しといわれた。
晩年は鷹ケ峰に隠棲し、元禄五年(一六九二)一月一六日、世寿七四をもって遷化す。
門人多し、いわゆる玉沢妙法華寺第二七世禅智院日好、妙顕寺第一八世勝光院日耀、妙覚寺主周徧院日進、正峯山妙興寺主本寂院日如らがいる。
承応年中、中山板首が日珖の定めた規則を違叛して、中山輪次を排し、別に住職を立てようとした。
その実は不受不施の邪をおどかさんがためであったが、日允は、すぐに官に訴えて、板首四人の主謀者をあげた。この時、日允は中山にあって大功を収めたといわれる。
武州青山に土地を得て、一小庵を築いて本通庵と呼んだ。
なお『本阿弥行状記』の記述によると、日允の母妙山は法華篤信の女性で、智恵賢く八○に及ぶまで一生のうち、遂に瞋恚の態度を示さず、生涯終るまで白衣にて暮したという。
「六十許にて夫に後れしより、二十年に及び、精進潔斎にて、法華の首題、毎日一万遍づつ怠る事なくして」、晩年は自らの子日允の居る妙覚寺に住し、臨終には祖師の大曼茶羅を掲げ、「大まんだらに香花飲食をそなへ、合掌して本尊を拝し、目たたきもせず、少しも苦気なく題目を唱へ、合掌を口の際へよせ、両眼をふさぐと見えて息たえたり」と書かれている。
《『日本仏教人名辞典』「日允」の項》