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日像門家分散由来記

にちぞうもんけぶんさんゆらいき #2458

日像門家分散由来記

にちぞうもんけぶんさんゆらいき

一巻。
著者・成立年代未詳。
書中に京都妙顕寺の歴代が列記され、文二二年(一五五三)八月に遷化した一〇世日広まで記載し、『宗全』「史伝旧記部」所収写本の奥書には元亀三年(一五七二)に筆写したと記されているから、おそらくこのに著述されたものと思われる。写本の奥書には、元亀三年(一五七二)壬申二月二一日と、日付が記されている〈『宗全』一八巻「史伝旧記部」(一)〉
内容は妙顕寺五世朗源が永和四年(一三七八)一月一八日に急逝し、その後職を決めることが発端となり、寺一門に紛争が生じ遂に分派活動に至る情を始め、以後中世における同門流の派生してゆく過程を記している。
発端となった朗源の後住問題は、同年二月一日に同寺の宿臈である日実、日成、通源(日霽)の三者が前で三鬮を引いて決めることになり、その結果最年少(三〇歳)の通源が三とも引き当てた。
この鬮に何か細工してあったためか、同年三月日実、日成は鬮の結果を不満として妙顕寺を退出し、小野妙覚の外護で妙覚寺を創建して分立した。
通源は鎌倉府の足利氏満の三男で、公武に親昵して厚い加護をうけ、智徳兼備の才人であったと伝えられる。
しかし通源は妙顕寺晋董後も、あまりにも公武に親近しすぎ、同門徒も権勢におぼれて安逸をむさぼる傾向が顕著になったので、周囲の諸門流から次第に批判されるようになった。
妙顕寺の寺衆の中にも貫首の行動に不満をもつ者もでて、遂に日誉が弘経寺、妙智が妙願寺、定厳が妙寺を建ててそれぞれ分立するに至る。
その後七世月明の代には立本寺日実、妙蓮寺日応、妙教寺宗学、本能寺日存、久成寺日成、八世日具の代にも妙光寺、本隆寺日真が分立した由を述べ、更に妙顕寺所蔵の古文書や同寺歴代譜を載せて参考に供している。
中世京都における日蓮団の伸長分派活動を示す貴重な文献として極めて注目されよう。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『宗全』史伝旧記部》

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