斎藤遠江守兼綱
斎藤遠江守兼綱
さいとうとおとうみのかみかねつな
もと遠江国蒲生の領主であったが、元久元年(一二〇四)に鎌倉幕府に叛いて三浦泰時に預けられ、のち茂原(千葉県茂原市)に流され、当地の邑主になったと伝えられる。
しかし日蓮聖人が弘安五年(一二八二)九月一九日に池上の病床から身延の波木井殿に与えた最後の消息『波木井殿御報』に「かづさ(上総)のもばら殿」(定一九二五頁)とあるのが兼綱だとするど、茂原の地名を冠称する地頭クラスの武家と考えられ、流人とするのは到底無理のようである。
藻原寺の寺伝によると、建長五年(一二五三)に聖人が清澄寺を去って鎌倉へ赴かんとする途中、上総埴生郡笠森の観音堂に休まれた。
そのとき兼綱は霊夢でこのことを知り、教化を受けようとそこへ急いだ。
近郷須田の地頭、高橋五郎時光も同じ夢告を受けて堂にかけつけたが、途中で両人が出会った。
両人はそれぞれ聖人を自邸に請じて受法帰依した。
そこで両人を「題目初唱の人」とよび崇敬するという。
その後兼綱は自邸に一宇を建てて、聖人はこれに榎本庵と名づけられたというが、これも伝説であろう。
建治二年(一二七六)一一月に、本格的に寺院化して立派な堂が建立され、聖人は日向に開堂の式を代行させ、常在山妙光寺(江戸初期から藻原寺とよばれる)とよんだ。
彼の法号は常在院日朝といわれる。
しかし『身延山史』などは、聖人の滅後兼綱が一宇を建立、茂原有縁の日向を屈請して開山したと伝えており、これが史実に近いと考えてよかろう。
兼綱の子範綱も妙光寺の興隆に外護を加えていることが、藻原寺に残る古文書などで分かる。
なおこれらの古文書によると、斎藤氏の本姓は藤原氏であったらしい。
また『本化別頭仏祖統紀』は、兼綱を富木常忍の妻の父とし、富木氏の縁で文永一一年(一二七四)に聖人の門に入ったとする異説を伝えるが、それを証すべき資料を欠く。
《『茂原市史』、『本化別頭仏祖統紀』、『身延山史』、『遺文辞典』歴史篇「藻原殿」の項》