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寛政法難

かんせいほうなん #1827

寛政法難

かんせいほうなん

寛政法難は京都要法寺第三一世守真院日住(一七三五-一八〇二)が寛政七年(一七九五)より京都十五本山と要法寺の間で本尊勧請形式について論争がおこり、日住は『本尊問答抄』『十条の問難』等をもってこれに対処し寛政九年に一応の収束を見るが、この法難(論争)の発端はさらに正徳年に遡り、収束はこれよりはるか先の文化四年(一八〇七)以後まで続く。
ことの発端は正徳元(一七一二)年四月、八品派大亀谷檀林出身の要法寺三十二世本住院日眷(-一七二七)が七条からなる式法を令達し、そこに二尊四菩薩の安置と法華経一部読誦(両方合わせて造仏読誦と言う)の化儀が明確に示され、使僧を諸末寺に派遣して式法の徹底を令したことに発する。
日眷は、これに先立つ元禄十五(一七〇二)年要法寺に晋山して以来、これ以外にも度々法令を発して一門の緊張をあおるがごとく、また正徳元(一七一二)年には仙台仏眼寺、同四年には大坂天満蓮興寺、享保九(一七二四)年には松江妙興寺という重要末寺に対して、それぞれ大石寺流の化儀を行ってはならぬとする旨の厳達を発している。
要法寺では、以前から一尊四士等の仏像造立思想が、大夫阿闍梨日尊(一二六五-一三四五)・弟子日大の代からあり、広蔵院日辰(一五〇八-七六)は「造仏論義」を著し、造の法義的な裏付けの確立の動きがあった。
すなわち、寛政法難で問題となった焦点は、本堂あるいは祖師堂の本尊として十界曼荼羅を正意として祀るのか、一尊四士等の、いわゆる像を中心に祀るのかという点にあった。
寛政九年(一七九七)要法寺側は「新義にあらず富士の立義である」と主張。
大石寺側は「富士の立義、式は要法寺とは無関係」と答申(要法寺側では新義ではなく富士の立義であると主張して大石寺を証人申請したが、大石寺では「富士の立義法式は要法寺とは無関係」と答申した)。
文化四年(一八〇七)ようやく像安置の形式について京都一五本山内部で合意が成立したが、要法寺の日誠師は富士の古風を訴えて屈せずついには富士の仏法に殉じ牢死するなど、仏像の撤廃、曼荼羅宗祖御木像(御影像)の本尊式にどう改めるかの議論は近現代にいたるまで決着を見ていない。
なお、「寛政法難」には上総新門徒の最後の法難とされる什門の「寛政法難」も別にある。これについては中村孝也「上総寛政法難宗門一件について」を参照。

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