鉄砲曼荼羅
鉄砲曼荼羅
てっぽうまんだら
駿河国(静岡県)重須本門寺に格護されている建治二年(一二七六)二月 日図顕の御本尊(丈九二・七(センチ)、幅四六・四(センチ)、三枚継)を鉄砲本尊、鉄砲曼荼羅という。
天正九年(一五八一)三月、武田勝頼は西山本門寺の訴えをいれ奉行増山権右衛門尉に命じ北山本門寺の重宝一〇〇余点を没収させた。
そこで当住日殿は甲府に赴き三月より一〇月に至る間ここに止って重宝返還のことを勝頼に愁訴したのであるが、勝頼はこれを聞入れようとしなかった。
止むなく日殿は重須に帰り本堂正御影(祖師坐像)の御宝前において断食行に入り霊宝還住を祈願し天正一〇年二月五日、五七歳をもって迂化した。
日殿の寂後、先住日出が再住したが、この月織田信長の武田攻めに際し徳川家康は重須の地に軍旅を進めた。
時に日出は家康に謁し重宝を取り返されんことを懇願し、かつその武運長久を祈って聖人のこの建治二年(一二七六)二月 日の御本尊を陣中安全のためにおくった。
三月一一日、勝頼は自刃し武田氏は滅亡したが、家康は甲府に収蔵されていた霊宝を取返し重須に返納させたのである。
さて、家康は武田軍と交戦中、鉄砲にうたれたが、弾丸が懐中に折りたたんでもっていた御本尊に当り、これが宗祖花押の所で止まり危きをまぬがれた。
そこで弾のあたった花押のところを切り抜いて改めて護身の守りとし、自身着用の陣羽織をもて本尊を表具し、天正一〇年七月一六日、大久保新十郎忠世をして納めしめ、更にまた同寺が水利の不便をかこっているのを見、堀を造って水利を便ならしめた。
この由来によりこの本尊を鉄砲曼荼羅という。
本曼荼羅下部、中央やや左のところ縦一四、七(センチ)、幅九・七(センチ)の切抜きがあるのがその個所である。
なお当山一五世日要は、天正以来一〇〇余年本尊の表具が衰破したので家綱公外祖母泉光院殿日行大禅尼参詣の砌、その命によって貞享元年(一六八四)一〇月二三日これを修補した旨をしたためている。
《日蓮教学研究所『日蓮教団全史』》