日紹(龍華院)
日紹(龍華院)
にっしょう
(一五四二-一六二二)
字は星陽、龍院院と号す。
初めは日韶。
備前金川(岡山県岡山市 旧・御津郡)の人。
飯高檀林に学び、岡山蓮昌寺一九世に晋む。
当時著名な碩学として知られ、かつ弁才に優れ「天下無双の説法者」と嘆ぜられた。
文禄二年(一五九三)京都妙顕寺日堯の譲を受けて一三世となる。
文禄四年秀吉が営んだ東山大仏殿千僧供養会に、日蓮宗がそれに出仕を命ぜられるに至って、不信謗法者秀吉の供養の受・不受が問題となった。
室町期に比して数段強化された権力をもつ秀吉と、それに対する宗門長老の見解に基づいた支配力によって、大勢はほぼ出仕に決した。
これに対し、当時三一歳の妙覚寺日奥独り宗制を固守し、断乎不出仕を主張し、妙覚寺貫首を捨てて出寺した。
越えて慶長四年(一五九九)一一月二〇日、大坂城において家康直裁のもとに、不受方と受方の対論が行われた。
この時に不受方は日奥、受方がこの日紹で、その結果は日奥が負けて翌五年五月対馬に流された。
《宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日本仏教人名辞典』「日紹」の項》