妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日尊(弁阿闍梨)

にっそん #2599

日尊(弁阿闍梨)

にっそん

(一三二三-九九)
中山法華経寺第四世、弁阿闍梨と号す。
元亨三年に生まれ、中山法華経寺三世日祐に師する。
その幼についてはよくわからないが、早くから日祐の弟子として随従していたものと思われる。
延文四年(一三五九)にはすでに法華寺・本妙寺(中山法華経寺)の本尊聖教等を弁公日尊一人に譲ることを師の日祐は「日祐置文」で定めている。
中山法華経寺は千葉胤貞流一族の氏寺であったし、日尊はまだ三〇歳をようやく過ぎたばかりであったことを考えると、その出自はやはり千葉氏の一族であったかも知れない。
その後も、日祐は中山法華経寺の貫首として相伝した諸堂や田畠を、後継者と定めた日尊に譲り、公私の祈祷や千葉胤貞らの冥福を祈ることを要請している。
中山法華経寺文書の中には、延文六年の譲状二通が伝わっている。
更に応安六年(一三七三)四月八日には、中山法華経寺の末寺と寺領のすべてを日祐から譲られ、貫首就任の準備を名実ともに整えている。
その翌年の応安七年五月一九日に日祐が没すると、日尊は五三歳で貫首に就任して、一門の統率に当ることになった。
貫首としての日尊が果すべき役割は、日祐の代に急速な発展を示した団を、しっかりと固めることであった。
そのためには、南北朝内乱によって目まぐるしく変る支配権力に意を注ぎながら、寺領末寺の確保をすることが重要な使命であった。
関東管領の足利氏満や下総の守護千葉介満胤から寺領の安堵を得たのも、その努力の程を示している。
また至徳元年(一三八四)には、寺領のことで鎌倉建長寺と争っている。
しかしながら中山法華経寺の団における内部矛盾も噴出している。
会津から来り学んだ日什は独立して顕本法華宗をたて、真間弘法寺日満は「門徒を引分」けて身延への帰趨を企てたりした。
このような困難の中で二五年貫首の座にあり、後を日暹に譲って応永六年九月七日、七七歳で没した。

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