妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日充(遠寿院)

にちじゅう #2465

日充(遠寿院)

にちじゅう

(一五八四-一六五〇)
遠寿院と号す。
下総中村に生れ、中村檀林第八世能化(除歴)となり学徒を養育した。
また一説によれば、能登滝谷妙成寺一一世と伝えるが、同寺歴代譜によれば一一世日充の院号は不明であるが、寂年月日は慶長七年(一六〇二)一月一五日とあり、寂年において五〇年近い開きがあり両者は別人と考えられる。
思うに妙成寺の日充は、その伝記が元政の『扶桑隠逸伝』に載せられており、これには出身地を下総とし、香取市岩部に筵を開いたとあることから両者を混同したものであろう。
ところで中村檀林の能化は長遠日樹・寂静日賢・日充と次第し、関東不受派のために大いに力を尽くしたが寛永七年(一六三〇)身池対論が起り、幕府の裁決は日充を奥州岩城平に追放した。
を同じくして各地に配流された日樹・日賢・日弘・日領・日進と共に前六聖の一人として崇敬されている。
この寛永年(一六二四-四三)流僧の扱い方を見ると、それ以後と比べ預る領主により多少の違いはあるものの、一般的には穏やかであった如くで、日充と日樹を除く他の諸師の配所においては、それぞれ寺院が建立された程であった。
日樹の場合は謫居一年にして入寂したので、寺院建立など無理な事と思われるが、磐城藩主内藤帯刀忠興の預りとなった日充の場合は晩年、窪田(いわき市勿来町)に寺屋敷地を与えられ今少し長命であったら寺院が建立されていたかも知れない。
またその生活は金川妙覚寺所蔵の日充の書状により一端を知ることができる。
ち吉田武兵衛に与えた書状によれば、十数人の学徒を集めて学問に精励させており、また玄抽に宛てた消息では、湯治のため不在して閑談が出来ず心残りであるから、御滞留中に今一対顔談話を望む計りだなどとあり、相当自由な生活がうかがわれる。
配所にあること二一年、慶安三年六月一九日入寂した。
碑は千葉県香取市中村に現存し、高さは約二メートル、左側面には「中村北南真俗起旃」とあり、中村に信仰者の集団があったことを物語っている。

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