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妙立寺(宮城県角田市)

みょうりゅうじ #1589

妙立寺(宮城県角田市)

みょうりゅうじ

宮城県角田市に所在。
法光山と号す。
正安元年(一二九九)三月二八日の創立。
開山は南部実長で法号を法寂院日円(一二二二-九七)という。
開基は妙円院日儀尼(-一三〇七)。
開基檀越は中森安芸守。
開基の日儀尼について寺伝によれば郷主中森安芸守の息女として生まれ、相州(神奈川県)村岡に嫁したが後となり、のちに実長の後室となったという。
実長の寂後は出家して尼となり、郷里に帰って当寺を建立して二世となる。
寂年は徳治二年十一月一三日という。
因に『本化別頭仏祖統紀』によれば、妙円院日義尼は南部六郎実長の義子(養子)として養われ、駿州(静岡県)の村岡に嫁した。
承久の乱(承久三年=一二二一)で夫の村岡民部大輔が忠死したので日義尼は後となり、のちに北条経時に仕え、相模守北条時を生む。
文永十一年(一二七四)、聖人佐渡より比企に還った折、出家得度して聖人より名を賜わる。
弘安年中(一二七八-八八)は京都六波羅の職を司っていたが、反逆の讒言を買い、後に兵を起して陸奥(青森県)の地を攻め討ち、伊具、柴田、勝田の三郡を領した。
妙円が聖人の徳に酬い、実長の恩を報ずべくこの奥州伊具郡に一精舎を建立したのが妙円山妙立寺である。
の家臣である賀茂氏、水戸氏もまた妙円の教化により宗門に帰依して寺を造立した。
正年中(一五七三-九二)越後(新潟県)の上杉景勝により、時の末裔である伊具は滅ぼされた。
しかし賀茂、水戸両氏の孫が山に身を隠して新田を築き、その頭首甚次郎を中心にして再び妙立寺が建立されたという。
また妙円の寂年についても永仁六年(一二九八)四月一二日となっており、寺伝と相違する点が多い。
妙立寺は初め末寺六ヵ寺を有していたという。
文明年(一四六九-八七)村内白坂より現在地に移転している。

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