善立寺(愛知県岡崎市・東京都足立区・静岡県掛川市)
善立寺(愛知県岡崎市・東京都足立区・静岡県掛川市)
ぜんりゅうじ
山号は大光山。
山号も寺号も同じ寺が岡崎市祐金町・東京都足立区(戦前まで台東区永住町)・静岡県掛川市の三ヵ所にある。共に身延山の旧末寺。
応仁元年(一四六七)に本是院日護が徳川家四代親忠の帰依をうけ、三河国安城郷に一宇を建立、寺領二七石余を拝領したのが始まりという。天文元年(一五三二)に清康は安城から岡崎の城に移り、二世日漸はこれに陪従して寺を岡崎に遷した。
天正一一年(一五八三)七世寿仙院日得が住すると、当寺代々の住持が徳川家譜代のものであったことから家康はとくに恩遇を厚くし、在城の折は菅生川の川狩の宿所にしたと伝える。
家康が江戸に入府すると、日得も同道を許され、元和元年(一六一五)麹町幸町に屋敷地を拝領、朱印一〇石を賜った。
これが三河と江戸に同寺が両立した理由である。
その後江戸の善立寺は神田三河町付近に遷されたが、慶安元年(一六四八)二世十如院日行のとき、譜代同様という扱いで浅草新寺町(台東区元浅草)に寺地八〇〇〇坪を下賜され伽藍を構築した。創建の頃の有力檀越は安藤対馬守、宮崎備前守、筒井内蔵、永井新右衛門、今村伝四郎、林丹波守など徳川家譜代の実力者であった。通称下谷善立寺とよばれ、塔頭一〇坊をもつほど発展し、寛文年中に瑞輪寺、宗延寺と共に身延山久遠寺の触頭に任ぜられ、江戸三役寺とも称されて日蓮宗諸国本山三〇ヵ寺、末寺共に支配する有力寺院となった。
静岡の善立寺は、日得が元和三年に横須賀城下に開創したという。開基檀越は本多六郎助久と伝わるが、助久の称呼は彦八郎であり、日得が寂した元和五年よりわずか五年前の慶長一九年の誕生だから付合しない。
しかし、この本多家は助久の曽祖父康重が岡崎城主であり、彼も采地を遠江国城東郡にもっていたから、何らかの関係があるといえよう。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮宗大観』、『文政寺社書上』》