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会式関免許

えしきぜきめんきょ #565

会式関免許

えしきぜきめんきょ

中世末以来身延山が有していた、会式の期中に登詣する参詣人の関銭免除の特権。
武田信玄は年未詳ではあるが、当甲斐南部を抑えていた穴山信君へ「身延山会式について、両口の往復恒例のごとく申し付け候」と指示し、永禄元年(一五五八)には武田家の創建にかかる甲府信玄寺へ「身延山会式中関税免除の」と申し渡している。
武田滅亡後、甲斐を領した徳川康もこの先例を追って正一七年(一五八九)正月「甲州身延山会式の関の事 右永く免許せしめられ相違あるべからざるものなり」と朱印状を下し、これを承けて同年一〇月には徳川家の代官大久保長安が「今月十日より十三日まで身延参詣の男女、路物木布は五端六端米は五升六升糸は十つれ十五つれを限りに、役所にて改あるまじきものなり」と、鰍沢と黒沢の口留番所へ命じた。
鰍沢と黒沢(現・富士川町9とは、身延山のある南巨摩郡の北部、甲府盆地を流れている笛吹川と釜無川が合流して富士川となり、盆地が尽きて南巨摩郡と西八代郡(現・甲府市)の山地に入らんとする所に、川を隔てて両岸に位置する。 ち甲府盆地から富士川を下って外に出る要地であり、かかる地勢の関係からここに口留番所、ち関所が設置されていた。
更に康の関東転封後、豊臣秀吉によって甲斐に封ぜられた浅野幸長も、文禄三年(一五九四)に「毎年十月開山会、十日より十三日にいたる、当寺参詣の輩所持の燈明銭ならびに仏物等、先規のごとく役あるべからざる」と参詣人の灯明銭などにたいする諸役免除の許可を出している。
かかる会式期間中における身延参詣人への保護は、彼らの参詣を容易ならしめ、多くの人々の登詣を促して、ひいては身延の発展に大きく寄与したのである。
この会式関免許の特権が、江戸時代を通して存続したことは、江戸幕府歴代の将軍による一連の朱状の写し等によって確認されるところである。

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