遠光寺始経問題
遠光寺始経問題
おんこうじしきょうもんだい
身延山三四世見竜院日裕は正徳三年(一七一三)小湊より入山した。
だが入山早々に遠光寺始経問題が起き、享保元年(一七一六)より一件落着まで前後一〇年間に亙る紛糾が続いた。
原因は享保元年一〇月一二日宗祖涅槃会の差定に「十二日一部真読、甲駿諸末寺中」とあるのに対し、遠光寺二六世日述(享保一三年四月一〇日化)が異議を挾んで、同寺末寺および檀那と結党し、翌二年に遠光寺上座始経役となることを企てた。
本院止むを得ず、翌々三年一〇月会式に日述代講の役を許容して落着させた。
だがこの処置に対して、諸寺、同輩より異論が百出した。
そこで本院側は日述を隠居させて解決を図った。
ところが日述側は、寺僧を懐柔し、役人に復職運動を願い、本山派遣の後任者を入寺させない等の行為に出たため、日裕は遂に、享保六年二月日述を奉行所に訴えた。
時に、身延山江戸触頭三カ寺(宗延寺・善立寺・瑞輪寺)は評議して、始経役を許可することとした。
そして先の代講許可状を返却するよう忠告したが、日述は承引しないばかりか、享保九年八月遠光寺より公儀に訴えた。
次いで翌一〇年正月二〇日、当番奉行、松平相模守の裁きによって「遠光寺始経の事、先例の通十二日始経上座相勤むべきことを本山より申付べし」との言渡しがあった。
かくして本件は遠光寺の主張勝利で終った。
《『身延山史』》