身延山伽藍記
身延山伽藍記
みのぶさんがらんき
円教院日意(一四四四-一五一九)が文明一〇年(一四七八)正月八日に著したもの。
寛正二年(一四六一)に身延十一世の法灯を継承した行学院日朝は狭隘な西谷の地から現今の山腹の地への、身延山久遠寺の移転拡張を計り、文明七年ごろほぼこれを完了した。
本記は日蓮聖人の身延入山以来、この日朝の移転拡張にいたるまでの身延山久遠寺造営の概略を述べ、既に貞和二年(一三四六)に身延五世の鏡円阿闍梨日台が久遠寺の伽藍が今の地に移される前兆の夢を見たことを紹介している。
即ち「文永十一年甲戌、吾祖嘉遯す。波木井氏の請に応じて甲地に到り、僅に小茅を結ぶ。浄界百余弓鷹取嶽の麓、猿鹿伍を為し、俗を去ること数里、読誦唱題快く安穏なることを得たもう。桃李蹊を成して終に一会と為る。別に方六丈の仏殿を開き、扁して身延山久遠寺と呼ぶ。祝釐拈香して宗門の祖山と為す。六万恒沙相い次で出るや、世人に乏しからず、滅後、如今二百余年濫觴の一水湛法海と為す也。檀越実長又内秘の人也。預め後の興隆を識り竊に遠鑑を廻らし四至地を増し峯に於て阜に於て谿に河に周匝不測なること殆ど天下に甲たり。吾師朝公来て玆に主たり。是の地隘狭にして衆毎に之を苦しむ。師鼎建の力を振って今の地に移す。躬自ら山を鋤き谷を塞き木を曵き石を搬ぶ。殿堂樓廡子院孫舎に迄各地勢を抱き、各其の處を得、達巷交衢俗民も亦其の便を得たり。後に偶古経の外帙を見るに烟煤敗墨の間微く字形を見る。塵を掃い細かに閲すれば第五代鏡円台上の讖文なり。其の文に曰く、貞和二年丙戌九月二十日の夜夢みらく、山僧偶隣村梅平に遊び、回顧すれば山巓に塔の九輪有り、之を下ること一等平地砥の如く、宏基鉅構殿堂樓閣鬱として盛んなり。村居処処崖に傍い流を抱き農夫役を取る。夢裡に思念すらく、他日吾山嘉時有りて輪奐是に至らん。夢醒めぬ、乃ち其の九輪の地に就いて八幡の社を築き以て之を誌すと云う。吾師能く畢て之を見、敢て人に語らず。余竊かに命を禀けて之を拝す。奇なるかな八幡の旧社今猶存す。謹んで惟るに高祖の遺訓往往言う。身延山は真の霊山、事の常寂光土なりと。然らば則ち三災にも焼けず、四劫にも遷されず、久遠劫来霊山一会儼然未散にして、実に本国土妙なる者なり。凡夫は識らず、悲しかな、夫台上は夢に託して理を説き、朝公は理に即して事相を視す。聖者の域、俯して信ずべきに足るものか。文明十年戊戌正月八日」。
以上がその全文である。
著者の日意はのち明応八年(一四九九)、師である日朝のあとを承けて身延一二世となり、以後二〇年間にわたって身延山の発展に尽している。
なお『日蓮宗宗学章疏目録』はこの正本が身延にあるとするが、身延山久遠寺身延文庫には現在その所蔵が確認されない。
ここでは『本化別頭仏祖統紀』巻尾所載のものによった。