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行川法難

なめかわほうなん #4685

行川法難

なめかわほうなん

受不施に対する幕府の弾圧が続いた江戸時代中期、上総行川村にても、宝永二年(一七〇五)不受僧の遠成院日源が自身の故郷上総夷隅郡国吉村(現在のいすみ市の西部)とその近くの行川村に赴いて教化し、その後、享保元年(一七一六)日源の弟子清順院日近が近村に布教、伝道し、行川村を中心にわずか一年の間に二〇〇余人の信者を獲得していた。
享保二年信者の中でいきすぎの者が出て、内信の者であることを忘れ公役・寺法の勤めをないがしろにする者が出たため、同地の妙泉寺・本寂寺の住持が不受不施者を享保三年二月、地頭筧(かけい)半四郎に訴え、ここに不受不施派の大検挙が行われた。
地頭は五月二九日、強信の者一四人を江戸に護送し、厳重な取調べが行われ、一信者の自白により、地主茂右衛門の縁者不受不施僧清順院日近の居所が知られ、他への迷惑を憂えた日近は諫暁書をもって自首し、不受不施の正義を上申し、茂右衛門も自ら同を望み、日近と共に入牢した。
また日近の兄弟子である恕宣院日融・了運日曜らが相次いで自訴し、この検挙を知った不染院日然・御院日清・体運日因、玄友日要・大智院日浄・立円院日信らも続いて自訴した。中でも七四歳の日浄は、若年の法燈相続者覚に代って出訴を決意したものである。
この件は一〇月二六日裁断が下ったが、その結果僧侶九名内四名獄死、投獄の上流罪一名、残り四名流罪、行川村信徒一四名内七名死亡残り七名改派の上赦免、他信者自害・牢死・浪人・追放処分となった。その検挙は江戸より大坂にまで及んだのである。
これを行川法難という。
この件の記録は享保三年七月二日柴崎市之丞の「享保三年戊年行川記」と、当時この法難の渦中にあった覚教院日憶(慈念院)の同年一二月一八日の記録「行川法難記」がある。
《影山堯雄『日蓮団史概説』、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、加川治良『房総禁制宗門史』、『行川法難記』『宗全』二一巻》

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