久遠元初の本因妙
久遠元初の本因妙
くおんがんじょのほんいんみょう
久遠元初とは時間的な概念であって、一番初めの時ということ。
本来、久遠とは「無始」と解釈されるべきものであったが五百麈点劫の仏を始覚の仏という解釈が生れた。
それ故に五百麈点劫の始覚の仏であることから、最初があることになり、その根本の時間を求め、我本行菩薩道の本因妙の時をそこに定めたのである。
それは有限的時間概念に束縛された思考であるために、どんなに遡っても時であり、終極に、ある一つの時を捉えて我本行菩薩道の本因妙と規定するのである。
そのことを久遠元初の本因妙という。
日興門流の『本因妙抄』、『百六箇口決』には、この本因妙を力説し、久遠の始覚である本因妙を末法の今日に移し、日蓮聖人は久遠始覚を我本行菩薩道の本因妙のまま今末法の現在に下種されるのであると説く。
つまりそれが下種の法主となり、釈尊は五百麈点劫の昔に本因妙を修して仏になられ、しかも化道が完了したと見なすのであって、釈尊を脱仏、日蓮聖人を本因妙下種の本仏と規定して来るのである。