不受不施悲田派
不受不施悲田派
ふじゅふせひでんは
不受不施派の一つ。
身池対論ののち身延・池上は公武除外制が、日蓮宗正統の宗制であるから、国主の寄進した寺領は国主の供養であると裁定された法令を下されたいと、繰返し訴えていた。
幕府は寛文五―六年(一六六五-六六)にわたり全国寺社領の朱印を調査して、改めて再度朱印を交付することになったが、幕府はこの時、この度の寺領の御朱印は徳川家先祖菩提のために、供養として与えるから受取りの手形(証文)を出せと申渡したのである。
このことは身延年来の主張が初めて認められたことを意味するものであるが、この幕府の方針に対し平賀本土寺日述、上総妙覚寺日堯、雑司谷法明寺日了など、また野呂檀林の日講、玉造檀林の日浣などは、不受不施義を堅持して、寺領を供養として受けるいわゆる受不施義は不当であるとして愁訴し手形の提出をあくまでも拒んだ。
ところが幕府は手形せぬ諸寺を停止する旨を重ねて申渡してきた。
寺請は寺請け証文のことで、寺がその檀家の者に対し、その寺の檀家であることを証明することであるが、家族の戸籍は寺にあるので、寺請を停止されれば、寺檀共に無籍となり公民権を失うことになる。
そこで小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺日純らは、御朱印は御慈悲の供養、つまり悲田として受けるという手形を提出して、朱印を受けたのである。
そこで幕府は、これらの諸寺を「書物をした不受不施派」と号し、一般には「悲田不受不施派」(悲田派と略称)と呼び、また悲田宗と称してこれを承認した。
しかしこの悲田派とてもわずかの命脈を保ったのみで、元禄一一年(一六九八)七月の法令によって壊滅の憂き目を見たのである。
《宮崎英修「悲田不受不施派の興亡」『日蓮教学の諸問題』、同『日蓮とその弟子』、同『日蓮宗の人びと』》