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日現(仏寿院)

にちげん #2821

日現(仏寿院)

にちげん

(一四九六-一五六一)
寿院と号す。
池上・比企両山一一世、備前岡山で生まれ、幼両山九世日純の門に入り、現海・妙法房・但馬房とも称した。
仙波に遊学して実海について台を学び、次いで京都に上り研学に努める。
永正一一年(一五一四)に一九歳で池上に帰り、妙法(覚源院)に住した。
文二年(一五三三)に大を継承することになったが、あいにく火災に遭い、復興に尽力し、やがて同寺一一世に迎えられた。
京都遊学は再三に及び、その学徳は高く評価され、遂に聴に達して権大僧都法に叙せられる。
その期は明らかではないが、日現が制作させた師範日純の寿像(覚源院蔵)の裏書に、享禄四年(一五三一)に三六歳で権大僧都法であったことを記しているから、それ以前と考えてよかろう。
文一九年、日純の退隠、日陽の遷化の後をうけて両山に晋董した。
両山在山中は東松山の上田氏、蒲田の行方氏などの有力武士の外護をうけ、両山経営にすこぶる功績を残した。
池上の仁王門の建設は、師範日純の遺業を継いだものであるが、仁王尊像は隣村古川村の古川薬師安養寺と宗論の結果、これに勝って行方氏の護衛のもとに、同寺から引きとったと伝えられる。
文一七年に比企谷妙本寺が類焼、戦乱の世で勧化も思うに任せなかったが、日現は一〇年後の永禄二年(一五五九)に大堂をようやく復興した。
受不施で有名な日奥の師範妙覚寺日典は、やはり備前の人で日現の弟子であった。従って学系的にも日現は不受不施義の現流に位置し、忘れ得ぬ存在である。
また日現は『書置』(本門寺蔵)に、両山の貫首には学徳兼備(諸学問に三〇ヵ年精進)の人を推挙すべきであると記している。
永禄四年七月二一日、六六歳で没したが、後住に適任者を欠き、二〇年無住となる。
著述に『助顕抄』『書置』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『池上本門寺史管見』、『日本仏人名辞典』「日現」の項

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