日叡(楞厳房・妙法房)
日叡(楞厳房・妙法房)
にちえい
(一三三四-九七)
楞厳房、あるいは妙法房と称した。相州鎌倉妙法寺開山。
後醍醐天皇の皇子大塔おおとうのみや(だいとうのみや)護良(もりなが)親王(一三〇八-三五)の遺胎の子と伝えられる。
護良親王は、元弘の変には僧兵を率いて大いに活躍し、出家名尊雲を改め、還俗して護良と称し、建武中興新政府設立に大功あり、征夷大将軍、兵部卿となったが、建武元年(一三三四)足利尊氏の隠謀によって親王に謀叛の企てありと讒言され、鎌倉の土牢に幽閉された。
翌建武二年北条高時の子、時行が鎌倉幕府の復活を計って反乱を起し、一時、足利直義を破って鎌倉を陥れたが、まもなく東下した足利尊氏に敗れ逃走した。
いわゆる中先代(なかせんだい)の乱の際、足利直義の手の者によって牢内で殺害された。
この時、母の胎内に居た子が日叡であるという。
日叡は母の謀によって幸に事なきを得て出生した。
父の王種を受け、殊に非凡、英邁であり、長ずるに及び、父護良親王の墓を恋い慕って鎌倉に来り、身分をかくし、常人を装って本国寺日静の弟子となり、楞厳麿と呼び、のちに楞厳房と名乗った。
師の日静は俗姓、足利尊氏の叔父であるといわれ、その師日印(一二六四-一三三八)から、鎌倉の本勝寺と越後の本成寺とを譲られたが、のち鎌倉の本勝寺を京都に移して本国寺と称したので、鎌倉の本勝寺は、妙法寺と改めたという(『相模史料』、『鎌倉市史』)。
楞厳房日叡は師と共に京都に行くを欲せず、鎌倉に残り、妙法寺の祖となった。
日叡は生涯その出自故に世を憚かり、固く父の名を秘し専らその冥福菩提を祈って唱題と法華経読誦の日を送り、追善供養に生涯をささげて孝道を全うしたという。
応永四年一一月九日遷化。
寿六四歳。
鎌倉妙法寺は鎌倉においては当時の宗門から別格の寺として尊崇されていたようで、永享の頃には鎌倉法華宗には珍しい勅願寺となっており、永享九年(一四三七)足利持氏の催した法華万部会の時には、鎌倉法華宗代表四ヵ寺の中に加わっている。