三宝寺(京都府京都市)
三宝寺(京都府京都市)
さんぼうじ
京都市右京区鳴滝松本町に所在し、金映山と号す。
寛永四年(一六二七)ごろ洛北花園村多野に菊亭(今出川)大納言経季(一五九四-一六五二)により創立されたが後に鳴滝に移り、経季、冷泉(今城)右中将為尚らの外護によって寛永六年ごろ寺観を整えるに至っている。
開山は中正院日護(一五八〇-一六四九)(後に和歌山養珠寺二世)。
『本化別頭仏祖統紀』に鳴滝の地について仁和寺法親王が地を割いて師を請じたと記しているが、日護が菊亭夫人にあてた手紙と、龍於(鳴滝辺の地主)が寛永八年に日護にあてた手紙によれば、仁和寺の領内ではあるが龍於の先祖勝林が買い取った土地で、何ら御室とは関係がないことがしるしてあり、また三宝寺移転についても仁和寺との間に問題が起きたが、有力な外護者菊亭、冷泉家等の助力で障害なくまとまったようで、このことを当山三世善通院日逞の記録に載せている。
当山は鳴滝村の内金尾山一箇所、境界は東は般若寺山の境まで、西は木々尾山、南は山下の岸沢、北は大山岸までで東西の谷に堂宇をたて、多宝像一尊、鬼子母神二体、三尺の祖師像を本坊に奉安し、二尺六寸、七尺二寸の釈迦立像を山中西谷に、三尺の座像を東谷に、三十番神像を番神堂に、五尺の釈迦坐像、妙見大菩薩本迹二体、三光天子三体を山中各堂に祀った。
これらの仏像、神像はすべて日護自作にかかるものである。
寛永一四年日護が五八歳の時本覚院日英(-一六四七)に三宝寺を譲っている。
《宮崎英修「中正院日護上人と文守一絲禅師」『波木井南部氏事跡考』》