随自意・随他意
随自意・随他意
ずいじい・ずいたい
随自意とは仏が説法する場合、自らの意のままに悟りの境界をありのままに説き聞かせること。その教法を随自意教といい、説法を随自意語という。
随他意とは、教えを受ける相手の能力に応じて、あるいは相手の意にかなうように配慮して法を説くこと。その教法を随他意教、説法を随他意語という。
ともに如来の三語(随自・随他・随自他)の一つ。
随自・随他は多くの教法の勝劣を論ずるときに、随自意は仏の本懐、真実の教え、随他意は方便の教えとして、教判の基準に広く諸宗の間で用いられる。
日蓮聖人は『観心本尊抄』で「伝教大師云く、此法華経は最為難信難解なり。随自意の故に等云云」(定七〇五頁)と、伝教大師の『法華秀句』の文を引いて随自意の証拠として難信難解をあげ、更に「其教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず。(略)迹門・並に前四味無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意・易信易解。本門は三説の外の難信難解・随自意なり。(略)一品二半自りの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(定七一四頁)と、難信難解を説く法華経においても、久遠実成を説く本門、その中でも久遠本仏が正説される一品二半のみが、最も難信難解な、仏の本懐を説き示された随自意であり、他は方便教(随他意)であるとしている。
《『遺文辞典』教学篇「随自意」「随他意」の項、『日蓮辞典』「随自意・随他意」の項、『天台学辞典』『岩波仏教辞典』「随自意」の項》