菊御紋禁止
菊御紋禁止
きくのごもんきんし
平田神道を中核として出発した明治政府は「神仏判然令」に引続き明治二年(一八六九)八月二五日「社寺ニ於テ菊御紋ヲ用ユルヲ禁スル件」(太政官)を布告した。
この布告に対し法明寺の妙原院は「菊紋ノ所へ色紙ヲ以テ張リ付」けるなどの案を身延山へ提出したという。
身延ではこの案を受け入れたのか天照、八幡を始め過去帳に勧請してある三十番神等をしまい置くこと、同時に「菊御紋付法服之儀者先ツ遠慮アルべキノコト」を、東京触頭である瑞輪寺、善立寺、宗延寺の三ヵ寺の名をもって末寺一統へ布達した。
この様な出来ごとは今日考えてみれば笑止沙汰であるが、当時いかに神道家の力が強かったかが判る。
しかし神道国教政策に失敗した明治政府は、同一二年五月二二日、「粧飾ノ菊御紋ニ関スル件」(太政官告達第二三号)を布達した。
即ち明治二年の布告以前にあった神殿、仏堂の菊紋の粧飾はその限りではないとしたのである。