正木左近将監
正木左近将監
まさきさこんしょうげん
(生没年未詳) 上総勝浦の城主正木時忠の子で、天正三年(一五七五)兄時通の死後、家跡を継いで左近将監頼忠と称した。
さて天正七年五月二七日、信長の打倒法華宗教団対策として画策された安土宗論は、頂妙寺日珖・常光院日諦らと浄土宗側の貞安・玉念ら、そして南禅寺景秀・因果居士らを判者として行われた。
結果は信長の内意通り、法華宗の負けとされ全国に喧伝された。
地方の法華宗は初めそれは浄土宗側の風説であり、真相の後報を待って巻返し宣伝を行おうと考えていた。
この様子を同年八月九日の千葉県安房郡鋸南町吉浜の保田妙本寺(日蓮正宗)一五世宰相阿闍梨日侃(一五二九-一六〇一)から正木左近大夫将監宛の消息が伝えている。
《宮崎英修「安房法華宗の意気」『続・日蓮宗の人びと』》