楠木氏
楠木氏
くすのきし
楠氏とも書く、南北朝時代の動乱期に楠木正成の出現によって台頭した一族である。
橘氏末流とされている。
明確になっている点は次の点である。
河内南西部水分川の左岸、現在の千早赤坂村の辺に本拠をおく小土豪であった。
永仁三年(一二九五)東大寺領播磨国大部庄の百姓が東大寺に提出した訴状に、楠河内入道らが種々の悪党的な非法を働いたと述べているが、その楠入道はおそらく正成の父祖もしくはその一族であろうとされる。
また正慶元年(一三三二)頃臨川寺領和泉国若松庄へ悪党楠木兵衛尉なる者が押入って乱暴したという風聞があり、この楠木兵衛尉は正成に相違ないということが明らかとなっている。
また、これまでの研究では、正成の本拠地である河内の赤坂は辰砂の産地である。
辰砂は水銀の原鉱で、朱の原料になる。
その採掘権を握り、売りさばいたのではないかということ。
あるいは楠木氏は散所の長者的な武士ではないかということで、散所とは一種の賎民、支配者の荘園領主の雑役に奉仕する一方、一定地域での漁業等の独占権を与えられていた。
その統率を任されていたのが長者である。
とにかく楠木氏の行動半径が畿内西部の広い範囲に及んでいるらしいこと、中世独特の商業組織である座に結びついている商業活動に関係があるらしいことである。
つまり、従来の所領の保持だけに専念する御家人体制的な武士ではなかったらしいということである。
また、
正成およびその一族が法華宗の篤信者で、とくに法華宗の守護神たる鎮宅霊符神(妙見尊)を信仰したという説は、江戸後期の出典によるものである。
さらに正成の子孫とされる正虎の墓が京都の妙覚寺にあるが、正虎の出自についても不明で、法華宗との結びつきも明らかではない。
《『本化別頭仏祖統紀』、田中義成『南北朝時代史』、松本新八郎『南北朝内乱の諸前提』『中世社会の研究』、林屋辰三郎『中世芸能史の研究』、中村直勝『荘園の研究』、同『大楠公夫人と銃後夫人』、同『足利ノ尊氏』、網野善彦「楠木正成に関する一・二の問題」(『日本歴史』二六四)、豊田武「元弘討幕の諸勢について」(『文化』三一-一)》