日饒(清領院)
日饒(清領院)
にちにょう
(-一六九八)
清領院と号す。谷中感応寺に住し、松ヶ崎檀林の能化をつとめた。
元禄四年(一六九一)四月幕府は悲田不受不施派を禁じ、碑文谷法華寺、小湊誕生寺の本末及び悲田派の諸寺を身延山の支配に入れた。しかるに悲田派諸師は表面は身延支配に入り内心に悲田派再興を企て、元禄一一年柳沢出羽守保明は将軍綱吉の内意を得、悲田派再興をゆるさんとした。
請願は法華寺日附、感応寺日遼、同寺隠居日饒、大乗寺(小湊末)日衷、妙栄寺妙月尼その他であった。
これを早くも知った身延は直ちに訴えてこの企てを暴露したので幕府は諸師を遠流、妙月尼を磔刑に処し、法華寺、感応寺等多くの寺々を天台宗に改めた。
なお日附は八丈島、日饒、日遼を三宅島に配流したが、日饒は流人船の中で自殺した。
日遼・日饒の供養塔はその出船の元禄一一年一二月一三日を命日とし三宅島善勝庵の奥山墓地に建てられている。