日庭(長遠院)
日庭(長遠院)
にってい
(一六二三-九二)
字を了憶、長遠院と号す。
長遠院日遵の資で、江戸青山自証寺三世。
寛文五年(一六六五)幕府の行った御朱印再交付に際し、その受領手形を拒否した日庭は自証寺を出寺せよとの申渡を受けた。
この時期、同じく手形提出を拒否し配流に処せられた日述・日堯・日了・日浣・日講と共に、後六聖の一人と仰がれているが、日庭を除く他の諸師が流罪の宣告を受けたのに対し、日庭が出寺という比較的軽い処罰になったのは自証寺が将軍家光の側室お振の娘、千代姫の庇護の下にあったためである。
しかるに出寺後は庵を構えあるいは地下に潜んで布教を続け、その間不受不施派を二分した日指・津寺の両派の争いには、佐渡阿仏房出寺最勝院日養とあい対して、日指派を支持し津寺派を非難した。
潜伏すること二二年にして終に捕えられ、貞享四年(一六八七)佐渡へ流された。
在島五年、元禄五年一〇月二一日、七〇歳(一説に七八歳)をもって入寂した。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』》