三十座の講経
三十座の講経
さんじゅうざのこうきょう
近世初期における言説布教は、主として法談または談義とよばれ、まれには説法ともいわれた。
その法談あるいは談義では何が談ぜられたかというと、仏心日珖(一五三二-八九)の『己行記』によると、法華経の各品の品名が見られる。
つまり近世初期の法談・談義の内容は法華経の講義であったということになる。
心性日遠(一五七二-一六四二)についてみるに、日遠が有馬温泉(兵庫県有馬町)に湯治の際、たまたま九条幸家に会った。
幸家は日遠から法華経の講義を聞いて大層喜び、かさねて法華経一部の略釈を乞うた。
この需に応じて述作したのが『法華大意』で、控の直筆は池田(静岡市)の本覚寺に所蔵されている。
この日遠が亡父の五〇年忌に相当するというので開説されたのがこの三〇座の講経である。
日遠の父は法号を入定院了玄日幽といい、天正四年(一五七六)一〇月二日に逝去している。
これによって五〇年忌は寛永二年(一六二五)に当る。
当時の日遠は大野(身延町)本遠寺在住中であって、甲府市遠光寺所蔵の書状によると、七月末から八月初めにかけ六日間、毎日五座ずつで三〇座の講経が営まれたという。