万治法難
万治法難
まんじほうなん
万治寛文年間(一六五八-七三)不受不施事件が相次いで起きていた。
什門においても、上総下総にて寛永四、(一六二七)、七年の両度の法難があり、その後、会津妙法寺二五世正統院日尚が会津より上総に住し、寛永四年破却された東横川宝立山方墳寺の近く南横川に日什・日経の法灯を継ぐ意味で妙法山芳墳寺を建て、常楽新派(新派・新流・新門徒)の根拠地として教線をはった。
この新流は「三重の謗法」をもって宗門側を攻撃し、また勝劣派に宮谷檀林が出来、制度が定まり一〇ヵ寺以外からは妙満寺貫首になれなくなる等の問題が起き、不受不施の問題とからまり、宮谷檀林並びに一〇ヵ寺と日経門流(新門徒)との衝突が起り、幕府が介入し、新門徒の処刑となり、日尚を始め一〇人が三宅島等に配流された。
時に万治三年(一六六〇)一二月二一日であった。
これを万治法難という。
《影山堯雄『日蓮教団史概説』、山口智光「内証題目講の研究」『日蓮宗不受不施派の研究』》