妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

身延攻めの弁

みのぶぜめのべん #4886

身延攻めの弁

みのぶぜめのべん

繰り弁の一つ。
本化別頭仏祖統紀』日叙上人伝によれば、甲斐の武田信玄は身延の地勢要害堅固なるをみて、居城をここに移そうと思い、礼をつくしてこの旨を申し入れ、替地として信濃に二倍の土地を寄付するといった。
の貫首日叙は「わが山は高祖棲神の地、七面守護の顕著なること信玄殿も知悉するところ、その望みには応じ難し」と断わった。
信玄大いに怒り兵を起して身延を攻めようとした。
ときに元亀三年(一五七二)四月十一日。
信玄自ら馬を進めたが神箭に傷つき倒れた。
大いに恐れた信玄はついに使者を遣わして陳謝したが、このときの傷がもとで翌四年四月十一日、ついに没したという。
身延山史』はこの身延攻めの初見を智寂院日省の『本化別頭高祖伝』とし、信玄と身延との好誼、また信玄の日叙への信頼をあらわす書状等から判断して、信玄の身延攻めの話は後世の伝説であろうといっている。
三省院日要の身延攻め説教は古来有名で、前後七席から構成されていて、講談調をもって聴者の心情に巧みにせまった。

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