にちおう
(-一五七一)
證誠院と号す。
『慧光山伝統録』、林日邵編『歴聖録』によると幼くして日真に師事し、日諦の法弟となる。
天文の初め北陸遊説し、河辺右京進時親帰依し日雄を開山として舞鶴本行寺を創建す。
天文一九年(一五五〇)京都本隆寺六世を継ぐ。
要法寺・上行院の和睦の労をとるが不調に終る。
永禄七年(一五六四)七月、山城本妙寺日門日雄に帰伏し師を開山と仰ぐ。
同年泉州調御寺において他流の学匠を招き講談所を開き教学の興隆を計る。
元亀二年四月一二日、山城本妙寺にて示寂。
著述は主に大石寺批判に力を注ぎ『興門流折破』、『一経読不之事』、『仏像造不之論』等がある。