妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日行(松林院)

にちぎょう #3043

日行(松林院)

にちぎょう

(一二六七-一三三〇)
朗門九鳳の一人、妙音阿闍梨とよばれ、松林院と号す。
俗姓は不詳。幼日朗の門に入り出家得度し、やがて智行兼備の僧とうたわれ、同門中で重きを成す。
師範日朗の没後、以前から道交を深めていた京都の日像を尋ねた。
日像より一〇歳年少であったから、あたかも師範に給仕するごとく慕い、日像も法子のごとく慈愛したと伝えられる。
ほんの一の観光のつもりで上洛したのであるが、日像の尊容、徳行をみて去りがたく、ついにここに止住することになる。
檀越某は日行のこの道念堅固な姿に感じて、新寺を建立、日像のすすめで断ることもできず、この寺を開堂し大妙寺と名付けた。のちにこの寺は豊臣秀吉の命で妙顕寺の境域に移された。
晩年に聖人苦難の地を慕い、佐渡に巡拝した。
聖人配流中に師日朗が訪れ、給仕のかたわらよく休息したと伝わる旧地が、畑野村にあり、付近に御腰掛石、赦免松、日朗坂などの縁故の地もあった。
日行はこの地を去るにしのびず、聖人堕涙の躅を万歳に残さんと志して一寺を造立し、日朗を開山と仰いで、日朗山本光寺を開いた。
この地にとどまり、朝夕聖人と日朗の遺跡を参拝し、一唱一涙、老いの身に首題を唱え、数年を過した。
その徳行は次第に人々の称賛するところとなり、聖人の再来、日朗の再誕と慕い、やがて改宗帰伏する者が踵をつらね、日行も労煩を辞せず、弊衣粗食に堪えて、たゆまず来訪する信者教導したと伝えられる。
元徳二年二月五日、六二歳で遷化した。
甲斐の八代郡富里村にある常盤山(法光山とも)妙円寺は、やはり日行が徳治年(一三〇六-〇八)に開創した旧跡である。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮宗大観』、『身延山史』、日蓮教学研究所『日蓮教団全史』上、『日本仏人名辞典』「日行」の項》

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