日苞(聖芸院)
日苞(聖芸院)
にっぽう
(一五四四-一六〇九)
俗性・生国は不明、聖芸院と号す。
池上一二世日惺の弟子。
文禄二年(一五九三)妙法華寺一三世日南の附弟となり、妙法華寺一四世貫首。
その頃、妙法華寺は越後村田の妙法寺に避難していたので、文禄三年、日苞は日南と相談の上、静岡県田方郡(現・伊豆市)に移転することを企て、妙法華寺及び塔中寺院等を再建した。
鎌倉には大坊の実相院のみを残置し、沼津妙覚寺、三島妙行寺から預け置いた寺宝等を帰納せしめた。
日苞は師匠である池上の日惺の所望により日蓮聖人真筆の霊宝『註法華経』を貸し(かわりに池上の霊宝『兄弟抄』が玉沢に預けられた)て研学の用に供した。しかし日惺が急死し返却されず、日苞自決の哀史を生んだ。
慶長八年(一六〇三)職を日産に譲り、雲金の妙本寺に引退した。
慶長一〇年、水戸に本法寺を草創し、開山となった。
引退後の日苞は前記の『註法華経』の返らぬことに責任を感じ、ひたすらに懺侮、滅罪の行を修したが、慶長一四年一〇月、妙法華寺近くの大見川畔の渕に身を投じて寂したといわれる。世寿六六歳。
その遺跡は今も「日苞ケ渕」の名を伝えている。
のち玉沢中興四師の第一に数えられる。
因みに『註法華経』は昭和一六年(一九四一)池上から玉沢に返り、玉沢に在った『兄弟抄』は池上に返った。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』》