日完(大野法蓮寺)
日完(大野法蓮寺)
にちかん
(-一六七三)
大野法蓮寺(市川市)の一八世。出身や学歴など、不明な点が多い。
寛永の不受論(身池対論)で不受不施義を主張した関東の諸僧は流刑に処せられ、一段落したのであるが、それにもかかわらず、関東諸山では不受論を信奉する者が多かった。
幕府は寛文五年(一六六五)に、以後は寺領、井水、道路に至るまで、供養のために与えるから、その受領の請書を提出せよと命じた。
これまで寺領などは国主の仁恩として受領していた不受義の制法を守る諸僧は、この不当な暴令に対し、幕府に抗議して一歩も譲らなかった。その中心人物は平賀の日述、興津の日堯、野呂の日講、それに大野の日完などで、ついに流罪に処せられたのである。
この法難は不受不施側の僧俗に斬首、入牢、牢死、入水、自刃、断食、疵浪などの多くの犠牲者をだしたばかりでなく、不受派の寺請は禁止され、事実上の禁教となり、寛文の惣滅とよばれるほど熾烈をきわめた。
日完はこの事件で同年一一月二七日、寺社奉行加々爪甲斐守直澄に日述、日講らとともによびだされ、ついで一二月三日に日堯、日述、日了、日完らが加々爪甲斐守の宿所に召しだされた。
この結果日完は口述とともに伊予国宇和郡吉田の城主・伊達宮内少輔宗純に預けられ、大野法蓮寺は召しあげられて身延の末寺に編入された。
その後日完は八年間配地で過したが、延宝元年三月一八日、不義の罪で処刑された。
《『寛政重修諸家譜』、『寛文法難記』》