鶴屋南北(四代)
鶴屋南北(四代)
つるやなんぼく
(一七五五-一八二九)
江戸の歌舞伎狂言作者。
合巻作者。
鶴屋南北の名跡は、元禄より嘉永期(一六八八-一八五三)まで五代にわたるが、第三代までは道外方の俳優で、四代以後が狂言作者である。
俗に「大南北」と呼ばれるのは、文化・文政期に活躍した第四代鶴屋南北を指す。
初め父と共に紺屋職をしていたが、生来の芝居好きと豊かな文才により安永五年(一七七六)初代桜田治助の門に入り、桜田兵蔵と称して同六年一一月の中村座『将門冠初雪』に初めて作者として名を連ねた。
のち当時の名作者金井三笑にも師事したが、同九年春市村座で澤兵蔵と改名、更に天明二年(一七八二)夏森田座で勝俵蔵と改名し、この頃、第三代鶴屋南北の娘お吉を妻に迎えている。
彼は寛政期の河原崎座、中村座で徐々に作者としての地歩を固めたが、彼が断然頭角を顕した作品は、初代尾上松助に懇望されて執筆した文化元年七月河原崎座の『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』で、空前の大当りをとったという。
かくして『春商恋山崎』(文化五年正月市村座)、『彩入御伽草子』(同六年同座)、『時桔梗出請状』(同年七月同座)、『霊験曽我籬』(同年六月同座)、『阿国御前化粧鏡』(同年六月森田屋)、『心謎解色糸(こころなぞとけたるいと)』(同七年正月市村座)、『勝相撲浮名花觸』(同年三月同座)、『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちよつととくべい)』(同八年七月同座)等の佳作を続出するに及び、当時随一の名作者と謳われるようになり、同八年一一月鶴屋南北を襲名した。
以降はほとんど二座の作者を兼ね、彼の代表作ともいうべき『お染久松色読販(うきなのよみうり)』(文化一〇年=一八一三=三月森田座)、『隅田川花御所染』(同一一年三月市村座)、『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)』(同一二年五月河原崎座)、『裏模様菊伊達染』(文政二年=一八一九=六月同座)、『菊宴月白浪』(同四年九月同座)、『浮世柄比翼稲妻』(同六年三月市村座)、『東海道四谷怪談』(同八年七月中村座)、『独道中(ひとりたび)五十三駅』(同一〇年六月河原崎座)等の傑作を出して名声は一世を風靡し、絶筆で一世一代と自ら記した『金幣猿島都(きんのざいさるしまだい)』(文政一二年一一月中村座)まで、その声誉を縦にしたが、文政一二年一一月二七日に深川黒船稲荷の地内で没した。
年七五(一説に七一)、江戸本所押上の日蓮宗長慶寺に葬られた。
彼は、頓才と茶番的趣向に富み、かつ鋭利な観察に長けて巧みに市井の風俗と流行とを穿ち、大胆な構想と対話の妙による描写を得意とし、いわゆる世話物を創めたが、また怪談物においても空前絶後の名作者と称せられている。
日蓮記物の一として有名な『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』には、彼の作劇の結構と機巧とがよく表れている。
彼の著した脚本は百数十編に上り、また姥尉輔、鶴屋南北の筆名による合巻草双紙も数十種が数えられる。
《『国史大辞典』九巻「鶴屋南北」の項》