日遙(本行院)
日遙(本行院)
にちよう
(一五八一-一六五九)
字は学渕、本行院と号す。
朝鮮国慶尚南道河東郡良甫面朴達洞に生まれる。俗姓は余氏。
「高麗日遙上人」あるいは「高麗遙師」と称されている。
文禄二年(一五九三)豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦火により家族とはぐれていたところを加藤清正の兵に捕えられた。
清正が姓名を尋ねると、「独上寒山石径斜、白雲生處有人家」と書いて示した。ときに日遙一三歳であった。
清正は少年の教養をおしみ日本に送り、寂照院日乾に託し、本国寺学道に学ばせた。
日遙は更に飯高檀林に学び、業なって熊本本妙寺に帰った。
慶長一七年(一六一二)清正一回忌ののち、当時再住していた本妙寺開山発星院日真より後途を嘱され、同寺三世の法灯を継承した。
清正の恩愛を殊に深く受けた日遙は、これに報いるために法華経一部の書写を始め、同年一〇月二四日にこれを清正公霊前に捧げた。
翌第三回忌に際し、一山の住侶上人の至誠に感じ、日遙は共に一夜に法華経一部を書写し奉納した。これが本妙寺の大祭たる清正公祥当逮夜七月二三日夜の頓写会の起源である。
慶長一八年当時の熊本城内にあった本妙寺が炎上した。この時に当り、日遙は国主加藤忠広に計り、清正公廟所中尾山に寺地を移し、元和二年(一六一六)再建落慶遷仏会を営んだ。
寛永九年(一六三二)加藤忠広は改易され、開基檀越家が断絶し、本妙寺は一大危機に直面した。
日遙は寂照院日乾を介し京都の朝廷に、また春日局を介して将軍家に働きかけ、将軍家光より新国主細川忠利に本妙寺相続について内命があり、加藤家時代と同様細川家の外護尊崇を得た。
今日、本妙寺があるのは日遙の法功に負うところ大なるものがあるが、また日遙の清正公に対する報恩の誠の至すところである。
寛永一一年細川忠利の勧めでその職を法弟本住院日選に譲り、熊本蓮政寺に隠退したが、承応元年(一六五二)日選遷化により再住し、この間、慶安四年(一六五一)肥前島原の領主松平摂津守に招請され、その室追福のため同地に譲国寺を開いた。
また上人は能書家として知られ、書を通じて藩主細川氏あるいはその重臣と親交を深めた。
《『日本仏教人名辞典』「日遥」の項》