妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日春(妙円坊)

にっしゅん #2721

日春(妙円坊)

にっしゅん

(-一六一一)
西山本門寺第一三世
妙円と号す。西山日心の弟子。
広蔵日辰は四八歳で要法寺に晋山後、重須・西山の係争に関する古来よりの文書を見、双方の主張を聞き、両者を説いて和融の道を開こうとした。
日辰は重須・西山の和融は日代を重須の歴世に列することによって開かれると考えたのである。
しかし重須では日代を歴世に加えることを断固として拒否した。
日辰は日代を加歴しなければこの和睦は無意義であると考え、和融の斡旋を打切ったのである。
上行院に請ぜられていた日春は、日辰の和融が成功しなかったのを知り、富士に下って再び斡旋の労をとった。
日春は日代の重須列祖を引込めて両山和融を試み、永禄五年(一五六二)四月一〇日に成立させた。
日辰は日春の行動に不純な点のあるのをみて、翌永禄六年二月八日、日春に対し質疑七条を呈して問難し、同月一二日、日春は日辰に宛ててその返書を送った。
日辰は更に同月二二日再問状を発し、日春は二答状を日辰におくって二問二答を交した。
この問答の問題点は日妙・日代の加歴と、像造不堕獄、一部読不堕獄論の三点で他は付随のものである。
日辰は西山・重須にそれぞれ日妙・日代を歴代に加えねば両山和睦は成り難いと確信していたし、造像堕獄、一部読誦堕獄論もかねてより攻撃しているところであったから、日春に対し強く論難し、日春もこれに反撃し、これによって上行院と要法寺の対立は更に化した。
西山・重須の和融は日春の努力により、ともかく成立したが、日代の加歴の問題は除かれて従前通りであったから真の通用とはならず、もなく日春は西山一三世として請ぜられたが再び重須と不和となり、正九年(一五八一)三月一七旦日春は武田勝頼に訴え、増山権右衛門を奉行として重須の重宝一〇〇余点を没収押領するに至った。
慶長一一年八月二〇日寂。
《『日蓮団全史』上、富谷日震『日宗年表』、『富要』史料類聚二》

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