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日宗(立正阿闍梨)

にっそう #2569

日宗(立正阿闍梨)

にっそう

(-一三八七)
山弘法寺(千葉県市川市)第三世(五世ともいわれる)、立正阿闍梨と号す。
日宗が日樹の譲りを受けて貫首の地位についたのは、延文三年(西暦一三五八)五月のことである。
師の日樹はこれ以後も存生していたし、中山法華経寺には中興の祖とも仰がれる日祐がなおも在位していたから、日宗が貫首職についた初期の頃には、中山と真の関係はゆるぎないものであった。
観応三年(一三五二)四月四日に、中山法華経寺の檀越として知られる大隅守千葉胤継から寺領の寄進を受けているのは、日宗と中山との関係が順調であったことを物語っている。
しかしながら、やがて日祐、日樹が没すると、日宗は弘法寺の中山門流からの独立を意図するようになった。
康暦二年(一三八〇)三月二三日、顕本法華宗の開祖たる日什は、富士門流から真に帰伏してきた。
その折に認めた「日什起請文」によると「何れの所に弘通仕候とも、下総真門流にて之有るべく候也」という一ヵ条がある。
ここに「真門流」所属を明確にするとあることは、この起請文の差し出し先が弘法寺貫首日宗であることを考えあわせれば、真間門流の独立が意図されていたことがよく窺われるのである。
また日宗は日什に対して弟子日満の育を要請し、一門の学頭職につけたりしている。
中山門流に対抗するために、自分の門流学を確立しようとしていたに違いない。
弘法寺の僧侶として活躍した日什は、その外護者の縁を通じて千葉氏の館を訪れたり、中山門流の中での動きを活発にした。
ところが、やがて日什は、中山門流に対する批判を行うようになり、それは真間弘法寺の中山に対する意志の表明としての意味をももった。
日什はしばらくの後にこの門流を去り、京都に上って新しく門流を設立したが、弘法寺の日宗は中山からの独立の意図を固めたに違いない。
嘉慶元年正月、日宗はその意図を果たさないまま没した。
そのあとを継いだ日満は、いわゆる法服問題を起し、ついに中山門流から独立したのである。

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