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三鳥派

さんちょうは #254

三鳥派

さんちょうは

三超派ともいう。
三鳥院日秀の主唱によるところからこの称がある。
日蓮宗の一派、不受不施と共に邪宗門として徳川幕府の禁止を受ける。
日秀の伝並びに三鳥派についていまだ明確には判明しない。
延宝八年(一六八〇)の末頃大石寺一八世日精が隠退して、末寺である江戸下谷常在寺に在住中、三鳥という者、日精の大石寺派の法義を聴いて習学していたが、その後、大石寺派の法義に違背したために破門され、三鳥院日秀と自称し、庵室にて祖書を講義し(『徳川禁令考後聚』巻二三)、江戸並びに相模・伊豆・駿河各地にえを弘めた。 これを三鳥派という。
宝永三年(一七〇六)幕府は新義異流として検挙し、三鳥派祖日秀を含む僧七人を三宅島に遠島、日秀は八月に寂したといわれる(『八丈島流人帖』)。
その後享保一六年(一七三一)、玄了なるもの武州吉祥寺成宗村・関村・田畑村の各村の農等に三鳥派えを勧めたが、訴えにより発覚したため、玄了は翌一七年八丈島に流され、外護者・組頭・名主など関係者を所払い・戸締め・過料などに処し、告訴した名主・組頭・百姓らに金子を賞された。 これをみるに、日秀が流されたのちも三鳥派の活動が続いていたようである。
この組織について『房総禁制宗門史』によると、玄了・玄心という日秀を継ぐ者が頼母子の組織を作り線を張っていたとあり、また信徒より金を集めて貧しい信徒に配分し「一両出せば十両もどる」といわれたそうで、一種の共同体的な発想を持っていたと述べている。
またこの教旨は、『還告史記』(生田五郎兵衛の遺書)に「妙法蓮華経の五字の題目を妙法の二字に折略し、呼吸に託して数遍之を唱ふれば、心中の邪念濁気を払いて悪気消散すと為し、即ち妙法の二字を以て観心本尊とし、経文白毫を放つの意を凡身に引き当て、其の身を宗祖に匹敵し、日蓮は迹門にて五字七字を弘め、此れは妙法の二字を以て本門弘通の旨となすに在り云云」と記す。
かくの如く三鳥派は、頼母子講的組織にて妙法の二字をすべてとした教旨であったようである。
《影山堯雄『日蓮団史概説』、加川治良『房総禁制宗門史』、『富要』、『徳川禁令考後聚』二三巻》

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