能勢頼次
能勢頼次
のせよりつぐ
(一五六二-一六二六) 多田満仲を鼻祖とする源氏頼光流に属す。
天正六年(一五七八)家督を継いで摂州能勢郡(大阪府豊能郡)を領す。
祖先多田入道頼定は暦応四年(一三四一)大覚妙実に帰依して備前に松寿寺を開き、その子能勢頼仲も同じく本行院(瑞雲寺と改称)を建て、また同族の能勢頼吉も妙勝寺を創建するなど、熱心な法華信仰を代々伝えていた。
頼次は本能寺の変に明智光秀に加担したため、豊臣に追われ領地を奪われることとなり、備前(岡山県)妙勝寺に隠れている。
のち慶長四年(一五九九)、弟で洛妙覚寺末鳥羽実相寺主金剛院の縁で徳川家康に仕え、翌年関ケ原戦役後、家康より旧領を復した。
法華の縁の深甚ならざるを知り、当時能勢を遊説していた本満寺衆徒玉持院日然を介して、その師寂照院日乾に法説を聴き、これにより一族あげて日乾に帰依するに至った。
日乾は当時弟子本行院日運を通じて既に能勢倉垣妙法寺(当時の寺号は未詳)と関係あり、以後は頼次の外護の下に、それまで真言の地であった能勢を改転せしめ、本宗の圧倒するところとなった。
頼次はまた日乾に山屋敷合せて東西五町南北六町を永代寄進し、日乾はここを隠居所とし覚樹庵と名づけ能勢における拠点とした。
寛永三年一月一八日頼次は六五歳で没している。
《『日蓮教団全史』上、、『国史大辞典』一一巻「能勢妙見」の項》