珠袋一異論
珠袋一異論
しゅたいいちいろん
珠とは一念三千の仏種、袋とはそれをつつむ法華経の題目をいう。
つまり珠である一念三千の仏種と、それをつつむ袋である題目とが一体であるか、異体であるかの論である。
日蓮聖人は『観心本尊抄』の中で「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさせたもう」(定七二〇頁)と述べて、一念三千の珠が妙法五字の中につつまれていることを明らかにした。
聖人滅後、行学日朝、妙蓮寺日忠らの見聞にみられるように、この文を解釈・説明するのに五字を一念三千の珠をつつむ袋に譬えて説明されていたのである。
ところが後生、説明のための譬喩としての袋の語が『本尊抄』の本文に挿入され、録内流布本には本文が「妙法五字の袋の内に」と変えられてしまったのである。
そうすると妙法五字が珠そのものではなく袋だとすると、一念三千の珠とそれをつつむ袋とは、その法体が異なるのではないかという論が起こったのである。
安国日講(一六二六-九八)は『録内啓蒙』の中で「朝抄別本」「恵抄」「宏記」「日源仰」等と諸師の説を紹介している(一九巻七六-八二)。
それらは「文の如くならば珠と袋に勝劣があるように聞こえるが、それは如何」という問に対する見解を述べたもので、いずれも一体としている。
また『御書鈔』には「義云」として五字は勝れ玉は劣るとの説を挙げ、「日耀私云」として「勝劣を論ずべからず」と述べている(八巻九六)。
要するに「妙法五字の袋の内に」とされたことによって珠袋一異の疑問が起こったもので、実義は一体であることを示している。