浦上氏
浦上氏
うらがみし
姓は紀氏で播磨国揖保郡浦上郷(岡山県)を本拠地とする一族で、室町期に播磨の守護赤松氏の重臣として活躍し、美作の浦山氏、播磨の浦田氏もその一族である。
浦上氏の抬頭は文明一五-六年(一四八三-八四)にかけての反乱である。
備前金川城の国衆松田元成の反乱に続いて播磨でも守護代の浦山則宗以下の国衆が反乱し、守護の赤松政則を一時国外に追い出している。
明応五年(一四九六)に政則が死去することにより、浦上氏の抬頭は確定的となる。
その一族の浦上宗助は備前和気郡の三石城に拠点をかまえ、被官の宇喜多能家を率いて西備前一帯に勢力を拡大し、守護赤松氏と守護代浦上氏との対立、離反は激化する。
永正一五年(一五一八)には遂に赤松義村と対決し、大永元年(一五二一)に播磨室津に滅ぼした。
かくして浦上氏一族は備前から美作にかけて勢力を拡大していった。
法華宗の篤信者として知られる浦上宗景は則宗の次男に当る人物である。
浦上宗景は天正五年(一五七七)に備前和気郡の天神山にて自己の被官であった宇喜多直家に攻め滅ぼされ、浦上氏は滅亡する。
ここで留意することは、備前、美作、播磨にかけて、法華宗の教線拡張は著しく、とくに備前では、備前法華との呼称をもって知られ、浦上氏と競合した松田氏および浦上氏の被官であった宇喜多氏も法華宗の篤信者として知られることから、松田氏や宇喜多氏に比べて直接的史料に乏しいが、浦上氏が備前法華を支える篤信者であったことが窺われ特筆される。
《岡山市史編纂『岡山市史』、谷口澄夫『岡山県の歴史』、高坂日好『赤松円心・満祐』》