日暹(治部卿・中山法華経寺)
日暹(治部卿・中山法華経寺)
にっせん
(一三四九-一四二二)
字を治部卿と称す。
中山法華経寺第五世。
日暹は中山法華経寺の「講」の組織を再編成した人ともいえる。
つまり日高・日祐の時代には千葉氏に連なる在地の豪族層を糾合した信者組織の域を出なかったが、次の日尊、そしてこの日暹の時代になると、講の組織は上層農民をも加えた地縁的性格を持つようになり、その信仰は教線の及んだ地域のすみずみにまで浸透するようになる。
『中山法華経寺史料』(中尾堯編)によれば、日暹は千田庄中村の地に、二〇日を講会の定日とする「二十日講」また千田庄金原郷にある安久山円静寺に、二二日を定日とする「廿二日契約衆」などを構成せしめている。
さらに小菅妙福寺(現在成田市小菅)を中心とした講集団に対して、この講の礼拝対象として自己の曼荼羅(日暹筆板本尊)を授けているが、この交名部には、原七郎以下数十名に及ぶ「一結衆」が名を連ねている。
このような千田庄における中山法華経寺の発展は、講の組織を基盤とするものであった。
応永二九年六月七日、七四歳にして寂す。