にちえん
(一四二三-八九)
成就院と称された。
京都本国寺第一〇世の貫首にして、日野家の猶子といわれる。
長享三年(一四八九)七月二三日、日堯に同寺を付属し、同七月二九日、六七歳にて寂した。
六条本国寺と身延との法嫡論争が、日円の代、文明一四年(一四八二)にあり、尾州清洲の織田大和守の舘にて対論をし、それぞれに弟子を遣した。
本国寺は三個の重宝を論拠とし、身延は身延霊山論等の立場を力説している。
最後は身延久遠寺の譲状がないと判断され、本国寺の勝利に帰したと伝えられる。
身延山一一世行学院日朝の代の時である。
《『日本仏教人名辞典』「日円」の項》