日典(中山法華経寺)
日典(中山法華経寺)
にちでん
(-一六一七)
中山法華経寺一一世、元和三年没、生寿は不明。
一〇世日俒の中村日本寺への退隠のあとを受けて貫首となり、困難な世情の中で寺門の経営を行う。
しかしながら徳川家康の保護を受けた仏心院日珖(一五三二―九八)の訴えにより、みだりに宝物―特に聖教類を散失させたという汚名を着せられ、長門国萩(山口県萩市)に流された。文禄二年(一五九三)のことである。
翌年の文禄三年には堺妙国寺、京都頂妙寺の貫首を兼ねる日珖が、中山法華経寺末寺の同意をとりつけた上で貫首職につき、上方三ヵ寺の輪番制への道を開いた。
萩での日典は藩主としてこの地に移った毛利輝元の保護を受け、越深野太郎左衛門の外護により、慶長九年(一六〇四)、阿武の松原に一宇を建立して松原山法華寺と号した。
中世を通して関東の日蓮宗の中心的寺院として指導的役割を演じて来た中山法華経寺は、日典を最後として上方三ヵ寺の支配を受けるようになったのである。