一絲禅師(文守)
一絲禅師(文守)
いっしぜんじ
(一六〇八-四六)
臨済宗で諱を文守、字を一絲といい工部尚書岩倉具堯の三子、母は藤原氏、八歳で皇太后中和門院(近衛信尋の生母)に奉仕し六年の後元和七年(一六二一)にこれを辞し相国寺雪岑梵崟長老に学んだ。
寛永三年(一六二六)一九歳の時に泉州で沢庵に会い、同年槙尾山賢俊律師に投じて祝髪、翌年再び沢庵の元へ帰ったのである。
二二歳の時、紫衣事件によって沢庵は羽州上山に流され、これに給仕すること一年を経て京に帰り閑夢庵を結んだ。
この頃亜相光広(烏丸権大納言)、丞相信尋(近衛前関白)と道交を結び帰依をうけ、二四歳の時、後水尾上皇の御帰依をうけている。
二七歳の頃、明の国に渡ろうとしたが、国禁のため果せず。
三一歳のとき上皇は師のために洛北西賀茂に霊源庵を創したが、一絲はこの庵に同年一一月五日に入り、その後一ヵ月余で丹波に帰っている。
また中正院日護との出会いは霊源庵に入庵したころより道交が始まったようである。
寛永一八年の時、桐江庵の北に大梅山法常寺をたて開山となり、のち、寛永二〇年に江州永源寺に入り、正保二年(一六四五)にたまたま美濃大仙寺を訪れての帰路に発病し、正保三年三月一九日三九歳を期して遷化。
《『日本仏教人名辞典』「一絲文守(いっしぶんしゅ)」の項、『国史大辞典』一巻「一絲文守(いっしもんじゅ)」の項》