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日養(鶴林院)

にちよう #3205

日養(鶴林院)

にちよう

(一五九七-一六五六)
京都本法寺一六世、中山法華経寺二八世。鶴林院と号す。
慶安五年(一六五二)、法華経寺に永輪番制が制定されたとき、その初祖として晋んだ。
法華経寺は慶長二年(一五九七)、心院日珖のときに輪番制が布かれ、京都本法寺・頂妙寺・堺妙寺の三山による三ヵ年の輪番が定められた。
しかし中山の院家は関西三山の支配を脱れ、住持常住を望み、貫首の入山拒否、末寺離反、不受不施主張による関西三山への対抗など、ことあるごとに輪番破棄の動きを示していた。
また舜統院真迢が「近来下総の日蓮宗の正中山の住持日養等がありさまを見よ。初めはいかめしく受不施を立て、後に渡世の縁によりて不受不施となれり。彼の中山の寺僧・檀那竪く不受不施を執するが故也。さてその住持、正中山を出て不受不施となれり」と述べているように、当時の輪番諸師は、貫首として入山すれば不受不施、出れば受不施という態度をとる傾向にあり、こうしたことも中山の三山に対する反発となっていたようである。
そこで慶安五年、一山を治めるため、ついに中山の希望を受け入れ永輪番の制を作った。
初祖には日養が推されて晋んだが、彼は既に二回輪番を務めており、人柄もおだやかで、中山の寺からも好感をもたれていたためと思われる。
こうしていちおうは輪番制が、中山の希望する方向に進んだのであるが、日養の寂後、頂妙寺日威当番のとき万治二年(一六五九)、法華経寺の衰退甚しいとの由で、永輪番制は僅か七年にして終り、旧制に復すこととなった。

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