妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日附(慈眼院)

にっぷ #3165

日附(慈眼院)

にっぷ

(一六四六-一七〇三)
慈眼院と号す。
碑文谷法華寺日禅のあとをうけ、谷中感応寺日饒、日遼、小湊誕生寺日映らと共に悲田不受不施派の法城を守ったが、元禄四年(一六九一)四月二八日、幕府の悲田派禁止と共に身延山支配下に入り受不施義に転じた。
しかし同信の諸師と共に内心に悲田義を奉じていたが元禄一一年、悲田義再興の気運が生れ幕閣の参加もあって日附らは猛運動を始めたが、中途にしてその動きは潰えた。
幕府はこれを悲田信者を徹底的に摘発し、碑文谷法華寺、谷中感応寺、成川妙耀寺等の諸寺を天台宗に改め、多くの僧俗を配流した。
このとき日附・日饒・日遼らは八丈島に遠流、日饒・日遼は船中に自害し日附は八丈島樫立村に住し、その配所を聖心庵と号した。
日附は元禄一六年閨八月一四日法華経を謹書したが「五十八歳老眼を拭て謹書」と認めている。
寂年未詳。

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