国府尼御前御書
書下し
国府尼御前御書
[1]阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なればこの文を二人して人によませてきこしめせ。
[2]単衣一領、佐渡の国より甲斐の国波木井の郷の内の深山まで送り給び候ひ了んぬ。
[3]法華経第四法師品に云はく、「〔人有りて仏道を求めて、しこうして一却の中において、合掌して我前にありて、無数の偈をもちて讃めん、この讃仏によるがゆえに、無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは、その福またかれに過ぎん〕」等云云。文の心は、「釈尊ほどの仏を三業相応して一中却が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたり」ととかれて候ふ。まことしからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。そのうえ妙楽大師と申す人、この経文を重ねてやわらげて云はく、「〔もし毀謗せん者は頭七分に破れ、もし供養せん者は福十号に過ぎん〕」等云云。釈の心は、「末代の法華経の行者を供養するは十号具足しまします如来を供養したてまつるにもその功徳すぎたり。また濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわるべし」と云云。
[4]それ日蓮は日本第一のゑせ(僻)者なり。その故は——天神七代はさてをきぬ、地神五代またはかりがたし。——人王始めて神武より当今まで九十代、欽明より七百余年が間、世間につけ仏法によせても日蓮ほどあまねく人にあだまれたる者候はず。守屋が寺塔をやきし、清盛入道が東大寺・興福寺を失し、彼等が一類は彼がにくまず。将門・貞たう(任)が朝敵となりし、伝教大師の七寺にあだまれし、彼等もいまだ日本一州の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆にはにくまれず。日蓮は父母・兄弟・師匠・同法(朋)・かみ一人・しも万民一人ももれず、父母のかたきのごとく、謀反強盗にもすぐれて、人ごとにあだをなすなり。さればある時は数百人にのられ、ある時は数千人にとりこめられて刀杖の大難にあう。所ををわれ国を出さる。結句は国主より御勘気二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島なり。されば身命をつぐべきかつて(糧)もなし。形体を隠すべき藤の衣ももたず。
[5]北海の島にはなたれしかば、かの国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだへをまじえ、くさをつ(摘)みて命をささえたりき。かの蘇夫(武)が胡国に十九年、雪を食ふて世をわたりし、李呂(陵)が北海に六ケ年、がんくつにせめられし、我は身にてしられぬ。これはひとえに、我が身には失なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり。
[6]しかるに尼ごぜんならびに入道殿はかの国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、ある時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すすむあし(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてやありけんと、をぼつかなかりしに、またいつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかい(使)にてつかわされて候ふ。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出る日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。また後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
[7]<日>六月十六日日>
[8]<人>日 蓮<花押>花押花押>人>
[9]<先>さどの国のこうの尼御前先>
現代語訳
国府尼御前御書
建治元年(一二七五)六月一六日、五四歳、於身延、和文、定一〇六二頁。
[1]阿仏房の尼御前から銭三百文を頂戴しました。お礼をいっておいてください。あなたがたは法華経信仰の同志なのですから、この手紙を誰かに読ませて二人いっしょにお聞きください。
[2]単衣一領、佐渡の国からはるばると甲斐の国波木井の郷の深山までお送りいただきました。厚く御礼申し上げます。
[3]法華経第四巻の法師品に「人が仏道を求めて、一劫という長い間、合掌して仏の前にぬかずき、無数の偈を唱えて仏を讃美したとすると、その讃仏の行為によって量り知れないほどの功徳を得るであろう。持経者を歎美する果報はさらにまさるであろう」と説かれています。この文の内意をいうならば「釈尊ほどの貴い仏を、身・口・意の三業を充足させて一中劫もの間、真心からご供養するよりも、末法の濁悪の世で法華経の行者を供養する功徳の方がすぐれている」と説かれているのです。まこととは思えないことではありますが、仏のおことばなのですから疑いをさしはさむ余地はありません。そればかりではなく、妙楽大師という方は、この経文をさらにわかりやすく訳して、「もし毀謗する者は頭が七つに割れ、供養する者は福徳が十の尊号を有する仏よりもまさるであろう」といっています。この解釈の内容は「末法の世で法華経の行者を供養するのは、十の特性に応じたそれぞれの名号を具えていらっしゃる如来をご供養申し上げるよりも、一段と功徳がまさっている。また、濁悪の末法の世に法華経の行者がいる場合、その行者を誹謗し迫害する者は頭が七つに分かれ裂けるであろう」というのです。
[4]そもそも私は日本の歴史の中で最高の憎まれ者です。なぜなら——天神七代の間は問題外とします。また地神五代の間も不明確だから除きましょう。——人の王の世となって初代の神武天皇から今上まで九十代、欽明天皇時代の仏教渡来から七百余年を経ていますが、その間に、世間一般のことにつけても仏法のことに関しても、私ほど多く人々に敵視され迫害された者はいません。たとえば、物部守屋が寺塔を焼き、平清盛入道が東大寺や興福寺を破壊したことを仏教界はあまり憎んでいません。また、平将門や安倍貞任は朝敵とされ、伝教大師は奈良の七大寺に敵視されましたが、彼らとても日本全土の僧・尼・男性信仰者・女性信仰者といった人々に憎まれたわけではありません。それにひきかえ私は、父母・兄弟・師匠・同朋を始めとして上一人から下万民にいたるまで一人残らずから、父母の仇敵のように憎まれ、謀反人や強盗に対するよりもひどい危害を加えられています。そして、ある時は数百人の人々から悪口雑言を浴びせられ、ある時は数千人に取り囲まれて刀で切られたり杖で打たれたりするという大難に会いました。また、在所を追い出され、国から放遂されもしました。結局、朝廷からの制裁を二度受けました。その一度は伊豆国配流であり、次にはこのたびの佐渡への遠島であります。そのようなことで、生命を長らえるべき食糧もなく、身体を覆うべき衣服も持てない状況に陥りました。
[5]北海の孤島佐渡に流された時には、あの島の連中は出家・俗人を問わず、相模国の人々よりもなおひどいことをしました。野原の中に棄て置かれ、雪の冷たさを防ぐ衣服もなく、草を摘んでは食べて命を支えたものです。あの蘇武が胡国の捕虜となって十九年間も雪をすすって生命を長らえたことや、李陵が北海の匈奴との戦いに敗れて巌窟に六か年も幽閉されたことの、その苦痛が身にしみてわかりました。私はそのような窮地に立たされましたが、自分にはまったく過失のないことです。日本国を安らかにしようと思ってしたことの結果が、あのような迫害を招くことになったのです。
[6]世間一般が私を敵視しているにもかかわらず、尼御前ならびに入道殿は、私が佐渡にいたころ、ある時は人目をはばかってこっそりと夜中に食物を届けてくださり、ある時は堂々と国府の役人に抵抗をして私の身代わりになろうとしてくださった方々です。あなた方がおいでになったからこそ、佐渡国はたしかに苦痛に満ちた所ではありましたけれど、いざ赦されて鎌倉へ旅立つ段になると、離れがたい心が湧きあがって、剃ったはずの後髪を引かれ、踏み出した足をもとに戻したい気持ちが起きたものでしたよ。いったい、どういう前世の因縁で、そのようにご助力いただけたのかと、不思議に思っていましたところ、また、思いがけず、このような遠国の山中にまで、あれほど頼りになさっている大切なご夫君を使者としてお遣わしくださいました。夢でしょうか、幻でしょうか。尼御前のお姿を拝見することはできませんが、お心は目の前に来ていらっしゃるように思われます。私が慕わしくお思いでしたら、朝に登る日や、夕方に出る月をふり仰いでください。私は、この世ではいつも日や月に姿を映して世の中を照らす身なのですからね。また、死後には霊山浄土へ往ってそこでお会いいたしましょう。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
[7]<日>六月十六日日>
[8]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[9]<先>佐渡の国の国府の尼御前先>