新尼御前御返事
書下し
新尼御前御返事
[1]あまのり(海苔)一ふくろ送り給び了んぬ。また大尼御前よりあまのり畏こまり入りて候ふ。
[2]この所をば身延の嶽と申す。駿河の国は南にあたりたり。かの国の浮島がはらの海ぎはより、この甲斐の国波木井の郷身延の嶺へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづらはし。富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。この河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり。河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし。
[3]この河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或る時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵となる。かかる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つついたて(衝立)たるがごとし。峯に上りてみれば草木森森たり。谷に下りてたづぬれば大石連連たり。大狼の音山に充満し、猨猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひびきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものはやまかつ(山人)がたき木をひろうすがた、時時とぶらう人は昔なれし同法(朋)なり。かの商山の四皓が世を脱れし心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ。
[4]峯に上りてわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ並び立ちたり。谷に下りてあまのりやをいたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげりふ(茂伏)したり。古郷の事はるかに思ひわすれて候ひつるに、今このあまのりを見候ひて、よしなき心をもひいでて、う(憂)くつらし。かたうみ(片海)・いちかわ(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給ひけんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし。
[5]これはさてとどめ候ひぬ。ただ大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候ふ。その故はこの御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人人の中にもしるしをかせ給はず。西域等の書ども開見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽くして渡す。また漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候ふ寺寺の御本尊、皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、その寺寺の御本尊またかくれなし。その中にこの本尊はあへてましまさず。
[6]人疑ひて云はく、「経論になきか。なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめ」と云云。しかれども経文は眼前なり。御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ。前代につくりかかぬを難ぜんとをもうは僻案なり。例せば釈迦仏は悲母孝養のために忉利天に隠れさせ給ひたりしをば、一閻浮提の一切の諸人しる事なし。ただ目連尊者一人これをしれり。これまた仏の御力なりと云云。仏法は眼前なれども機なければ顕れず、時いたらざればひろまらざる事、法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随ひて増減し、上天の月の上下にみち(盈)かく(虧)るがごとし。
[7]今この御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年——その後また法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品属累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。「これ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我れ五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。これにゆづるべし」とて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる「妙法蓮華経」の五字をゆづらせ給ひて、「あなかしこあなかしこ、我滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし。彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大早魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ちること、雨のごとくしげからん時、この五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。ないし後生の大火災を脱るべし」と仏記しをかせ給ひぬ。
[8]しかるに日蓮、上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、かの菩薩の御計らひかと存じて、この二十余年が間これを申す。この法門弘通せんには「〔如来の現在すらなお怨嫉多し。いわんや滅度の後においておや〕」「〔一切世間に怨多く信じ難し〕」と申して、第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭領家万民等なり。これまた第二第三の僧侶がうつたへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈し、或は刀杖等云云。
[9]しかるを安房の国東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。その故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源の右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。この人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。さればこの太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東条の郡にすませ給ふか。例せば、八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中ごろは山城の国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。
[10]日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡に始めてこの正法を弘通し始めたり。随ひて地頭敵となる。かの者すでに半分ほろびて今半分あり。
[11]領家はいつわりをろかにて或る時は信じ、或る時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき。日蓮先よりけさんのついでごとに「〔信じ難く、解し難し〕」と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、この御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん。また経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。この由をば委細に助の阿闍梨の文にかきて候ふぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給ふべく候ふ。
[12]御事にをいては御一味なるやうなれども、御信心は色あらはれて候ふ。さどの国と申し、この国と申し、度度の御志ありて、たゆむけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候ふなり。それも終いにはいかんがとをそれ思ふ事、薄氷をふみ、太刀に向かふがごとし。くはしくはまたまた申すべく候ふ。
[13]それのみならず、かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候ふ人人に、いまは世間やわら(和)ぎ候ふかのゆへに、くゆる人人も候ふと申すに候へども、これはそれには似るべくもなく、いかにもふびんには思ひまいらせ候へども、骨に肉をばか(替)へぬ事にて候へば、法華経に相違せさせ給ひ候はん事を叶ふまじき由、いつまでも申し候ふべく候ふ。恐恐謹言。
[14]<日>二月十六日日>
[15]<人>日 蓮<花押>花押花押>人>
[16]<先>新尼御前御返事先>
現代語訳
新尼御前御返事
文永一二年(一二七五)二月一六日、五四歳、於身延、和文、定八六四—八七〇頁。
[1]甘海苔一袋、頂戴いたしました。また、大尼御前よりの甘海苔もあわせてお送りいただきましたこと、お礼申し上げます。
[2]このたび庵室を結んだ所を身延の嶽といいます。駿河の国は南に当たっています。その浮島が原の海岸から、この甲斐の国・波木井の郷・身延の嶺への距離は百余里に及びます。しかも他の道を千里行くよりも険難なところです。富士川という日本一の急流が北から南へ流れています。この川の東西は高山がそびえています。深い谷底を川が流れているといった具合で、左右は大石で高い屏風を立て並べたようにそそり立っています。川の水は筒の中に強兵が矢を射込んだように速く流れています。
[3]この川の左右の岸をつたい、あるいは河を渡って行くのですが、時には、流れが急で石が多いので舟が破れて木葉微塵となってしまいます。そういう難所を過ぎて行くと、身延の嶺という大きな山があるのです。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、そして北が身延の嶺なのです。だから高い屏風を四枚衝立にしたようです。峰に登ってみれば草木が森々と生い繁っています。谷に下ってながめると大石がごろごろと連なっています。狼のほえる声が山々をゆるがし、猿の鳴き声が谷々にこだまし、雄鹿の妻を求める鳴音が哀れに聞こえ、蝉の声がやかましく響きわたります。寒いので、一般には春咲く花が夏に開き、秋になる果実が冬にならないと実を結びません。人影はほとんどなく、偶然見かけるのは山樵が薪を拾っている姿、それに、昔からいっしょに活動した同志が時々尋ねてくるだけです。あの秦末に四皓が乱をさけて商山に遁れた心地、また晋の世に風流の士七賢が隠れた山はこのようなものであったのかと思い合わされます。
[4]峰に登って和布が生えているかと見まわすと、そうではなくて蕨ばかりが立ち並んでいます。谷に下って甘海苔が生えているかと尋ねてみると、探し方が悪いのでしょうか芹ばかりが茂り伏しています。そのように海産物とはまったく縁のない所なので、故郷のことはすっかり忘れていましたのに、今この甘海苔を目にして、わけもなく胸がいっぱいになって、、憂く辛くなりました。これは、まさしく、片海・市河・小湊の磯のあたりで昔見た甘海苔に違いありません。色も形も味もまったく同じです。何もかも昔通りであるのに、ああ、どうして私の父母だけがお亡くなりになって帰ってきてくださらないのかと、まるで見当違いの恨めしさに、涙が流れて止めることができません。
[5]愚痴をこぼすのはやめましょう。さてさて大尼御前がご本尊の授与を希望なさっているとうかがって困惑しています。なぜなら、私が顕わし示したご本尊は、インドから中国へお渡りになった多くの学僧たちや、中国からインドへお入りになった人々でも、一人もお現わしになられていないものです。玄奘三蔵の西域記などの書物を見ますと、全インドの諸国の寺々の本尊がみな記録しつくされて伝えられています。また中国から日本に渡来した聖人や、日本から中国へ入った賢人たちが記録なさっている中国の寺々のご本尊もみな検討しつくし、わが国のものについても、最初の寺である元興寺・四天王寺をはじめとする数えきれないほどの多くの寺々の日記類、また寺院関係以外でも、日本紀という文書をはじめする多くの史書・日記に残りなく記されていますから、その寺その寺のご本尊はすべて判明します。その中に私の信奉するご本尊は一度もお姿を現わしていらっしゃいません。
[6]ある人は疑っていうでしょう。「日蓮の顕わした本尊は経論にもとづいていないのではないか。だからこそ過去の多くの賢者たちは、図像にも画かれず、木像にも作られなかったのであろう」と。しかし、経文は厳然として存在します。ご不審の方々は経文に証拠があるかないかをしっかりと調査すべきでしょう。だいたい前の時代に作らなかったとか画かなかったとかいうことを根拠として非難しようとするのは誤りです。たとえば、釈尊は母摩耶夫人の転生を導くために忉利天に上って説法をなさいましたが、世界中の人々は誰一人としてそれを知りませんでした。ただ十大弟子の中で神通第一とされる目連尊者だけがそれを知っていたのですが、これまた仏の神通力によるものであるのです。このように、仏法は目の前に在るのですが、それを感じ受ける機根がなければ顕われないし、時期が熟さなければ広まらないということは、自然法爾の道理なのです。たとえば、大海の水が時に随って満ちたり干いたりし、天空の月が時に応じて満ちたり欠けたりするようなものです。
[7]さて、このご本尊は、教主釈尊がこの世に出現なさる以前の五百塵点劫の昔から心の中に秘蔵していらっしゃったもので、現世において覚者となられてからでも、法華経を説く以前の四十余年間はお示しにならなかった——いや法華経の説法に入ってからでも迹門の初めの方は通り過ぎて、見宝塔品にいたってはじめて説き起こし、本門の寿量品において真相を顕わし、神力品・属累品で完結したご本尊であります。これを弘めることを希望して、金色世界の文殊師利菩薩、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音菩薩、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩ら多くの菩薩たちが、われもわれもとお申し出になったのですけれども、釈尊はそれをお許しになりませんでした。そして「これらの菩薩たちは、智恵がすぐれ、才覚もある連中として評判は高いのだが、まだ法華経に帰依してからの日も浅く学問も不十分であって、末法濁悪の世で遭遇する三類の怨敵の難に耐えることができないであろう。私には五百塵点劫の昔から大地の底に待機させている秘蔵の弟子がいる。その者たちにこの大任を引き受けさせることにする」とおっしゃって、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩たちを従地涌出品においてお召し出しになり、法華経の本門の肝心要である「妙法蓮華経」の五字をお授けになって、「謹聴せよ、謹聴せよ。私の死後、正法の行なわれる一千年間、また像法時代に入っての一千年間には、この法を弘通してはいけない。末法時代になると、その初期から謗法の法師が世界中に満ち満ち、諸天善神が怒りを爆発させ、彗星が天空いっぱいにとびまわり、大地震がおきて大地は大波のように揺れ動くであろう。そして、大早魃・大火災・大洪水・大流行病・大飢饉・大戦乱などの数知れない大災難が競い起こり、世界じゅうの人々が身を甲冑で固めて手に手に弓や刀をにぎる時、また諸仏・諸菩薩・諸大善神らの御威光が萎えて無力におなりになる時、あるいはまた人々がみな死んで雨が降るようにはげしく無間地獄に陥る時、その時こそ、この妙法蓮華経の五字の大曼荼羅を身につけ心に信じるならば、為政者たちは国を安らかにすることができるであろうし、万民は災難を逃れられるであろう。いや現世が安穏になるばかりでなく、死後に地獄の火で焼かれる苦しみからも脱れられるに違いない」と仏は記し置いていらっしゃるのです。
[8]ところで私は、上行菩薩ではありませんが、末法時代の仏法のあり方について、およその事を予知したのは、上行菩薩のお計らいによるものであろうと思って、この二十余年の間、妙法蓮華経の五字を広めることに努めてきました。この法門を弘通するとなると、法華経の法師品に「この経を信受するものは、如来の在世中でさえも怨み嫉みが多い。まして滅後には、世間全般に怨みが多くて信じることが困難である。」といわれている通り、三類の怨敵に苦しめられるわけですが、その第一の怨敵「俗衆増上慢」とは国主ならびに郡・郷等の地頭・領家およびそれに従う人民です。この連中が、第二の怨敵「道門増上慢」や第三の怨敵「僣聖増上慢」といった僧侶たちの訴えるところに随って、法華経の行者を、あるいは悪口をあびせ、あるいは罵倒し、あるいは打ったり切ったりするのです。
[9]私たちの故郷、安房の国・東条の郷は、地図の上では辺境の国ですが、内容からいえば日本国の中心のような所です。なぜなら、天照太神がお住みになっていらっしゃる所だからです。天照太神は、昔は伊勢の国に住んでおいでになったのですが、国王が八幡や加茂の神々ばかりを尊崇して、天照太神への御帰依が浅かったものですから、太神は不快にお思いになっていらっしゃった——その時、源の右大将頼朝という人が、ご起請文を記して会加の小大夫に命令して天照太神を奉戴し、伊勢の外宮に安置なさったものですから、太神の御心にかなったのでしょう、頼朝は日本国を統治する将軍となりました。その頼朝が、安房の国・東条の郡を天照太神の御栖とお定めになったのです。だから、この太神は、今は伊勢の国にはおいでにならないで、東条の郷におすみになっていらっしゃるはずです。たとえば、八幡大菩薩は、昔は筑前の太宰府においでになりましたが、中ごろは山城の国・男山に移られ、今は相模の国・鎌倉の鶴が岡に住んでいらっしゃいます。天照太神も同様なのです。
[10]私は、世界の中で、日本国・安房の国・東条の郡ではじめて妙法蓮華経の五字に集約された正法を弘通しはじめました。それで念仏信者の地頭が敵となりました。彼の勢力はすでに半ばは減退したのですが、まだ半分ほどの力が残っています。
[11]領家の大尼御前は、頼りにならない愚かもので、私の教えを、ある時は信じ、ある時は疑って、ふらふらしていましたが、私が佐渡に流された時に、とうとう法華経をお捨てになりました。私が以前からお会いするたびごとに「法華経は信じがたくわかりにくい経典です」と申し上げていたのは、このようなことを指すのです。大尼御前は、私が重恩を蒙った方ですから、その現世安穏・後生善処のために、ご希望通りご本尊をお授けしたい気持ちもあるのですが、それをしたならば、法華経の守護神である十羅刹女が、私を私情におぼれた偏頗な法師であるとお思いになるでしょう。また一方、経文に説かれている通りに、不信の人にはご本尊を授けないということにすると、私は偏頗さは解消するといっても、大尼御前が自分の過失に気が付かないで私をお恨みになるに違いありません。このことを助阿闍梨への手紙にくわしく書いておきました。いずれ彼を招いて大尼御前にお見せしていただきたいと思います。
[12]それにひきかえあなたの場合は、大尼御前の御一族ですから、行動はともにされているようですが、ご信心については目に見えてしっかりしていらっしゃいます。私が佐渡の国に流されていたころといい、この身延山に隠棲してからといい、少しも変わらずたびたびご芳志を示されて、怠る様子がお見えにならないので、ご本尊はお授けいたしました。とはいっても、あなたのご信心が、最後まで変わることがないかどうかということには、まだ不安があって、薄氷を踏み、あるいは太刀に向かって立つような気持ちです。くわしいことはまたいずれ申し上げましょう。
[13]信心が揺れ動くというのはあなたがただけの問題ではありません。鎌倉方面でも、私が流罪にあった時に、千人のうちの九百九十九人にものぼる脱落者が出ましたが、その中には私に対する世間の風当たりがやわらいだ今になってみると、後悔して、また門下に加わりたいと希望する人がいるという報告を聞いています。まあ、そんな連中とは比較にならないほど重恩を受けた大尼御前のことですから、いささか心苦しく思いますが、「骨と肉とは混同できない」という諺の通り、法華経に違背なさったのは絶対に許されないことだという道理を、あくまでも厳しく申し上げたいと思います。恐恐謹言。
[14]<日>二月十六日日>
[15]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[16]<先>新尼御前御返事先>